コラム「友情と尊敬」

第185回「よい反則のスペースはあるのか。」 藤島 大

よい戦争はない。よい差別もない。あってはならない。では、よい反則は。

9月20日の夜である。飲食店にすえられた小型テレビの音声が、ふと耳に飛び込んできた。アジア競技大会の男子バスケットボール決勝、日本対韓国の中継で解説者が言った。

「ファウル、いいですよ」

目の前の水餃子に垂らすラー油の加減に夢中で、いかなる場面かは覚えていない。ただ、あらためて思った。

「そうだよな。バスケットではあるんだよな。よいファウルが」

おもにスコアで追いかける側が軽微な悪さで相手の攻撃時間短縮を狙う。「ここはファウルで時計を止めたい」。そんな発想や言葉はゲームに組み込まれている。サッカーでもピンチにちょこんと足先をかけて倒すくらいなら「さすがです。ベテランの味」なんてほめられたりする。

友情と尊敬を旨とする本コラムはひとまず唱えよう。

「ラグビーでは考えられない」

本心では少し気がかりだ。いま、「考えられない」と言い切れるだろうか。スクラムで劣勢のフロントローが2点リードの終盤、わずかに早く重心を前に傾けることでFKを与える。現行の競技規則では組み直しを許されない。よって後退や崩壊のPKを避けられる。タップ起点の攻撃を渾身のタックルまたタックルで阻み、ついに逃げ切る。経験のある方がおられたら挙手をお願いします。

まあ、それでも、ラグビー界に「よい反則」を尊ぶ気風というか文化は存在しない。と、ここに書いて、あら困った、ひとつのシーンが頭をよぎった。

昨年7月。南アフリカ代表のスプリングボクスはイタリアとのテストマッチにおいて、みずからの蹴る開始キックオフをわざと10m線より手前で仲間に捕らせて、セットピースに持ち込む奇策を用いた。

ラッシー・エラスマスHC(ヘッドコーチ)は意図を明かした。「ゲームをスクラムで始めたかった」(ヘラルド紙)。イタリア投入であれ、たんまり圧力をかける自信ならあった。

もしかしたら過去には、蹴り損ねのふりをしながら「スクラム勝負で景気づけ」や「怒涛の押しで起死回生」にかけるチームはあったかもしれない。でも今回はあからさまにして堂々の「ノットテン」。正直と解釈できなくもないが、そもそも後ろめたさのないような気もする。失敗でなく、失敗という名の成功。これ、バスケットボールの「戦術的(タクティカル)ファウル」と重なりはしないか。

そうあってほしくはないけれど、また、そうはならぬと信じる立場ではあるが、将来、ラグビー界に「よい反則」が広がったら、2025年7月のスプリングボクスはその胞子、繁殖をもたらす発芽と記録されるかもしれない。

16年前。サッカーのワールドカップ南アフリカ大会で究極の例があった。
 ウルグアイ代表のルイス・スアレスは、準々決勝、1―1の延長終了直前、ガーナの枠内を襲うシュートをよりによって手で阻んだ。退場。PK。しかし、クロスバーに当たって、ペナルティー・シュートアウト(PK戦)へもつれ、ウルグアイがしぶとくものにした。スアレスは本能と権謀のカクテルのごときギャンブルに勝った。会見での素朴な英語の一言はよく知られている。

「ガーナの選手がペナルティー(キック)を外したんだ。私じゃない」

現代のラグビーでは、ひとつのペナルティーが、しばしば白黒に結びつく。中盤のブレイクダウンでのかすかな角度のズレがとがめられる。タッチキック→モールでたちまち5点、それどころか7点。白状すると「Pからタッチのラインアウト投入は昔みたいに蹴り出されたほうが」とよく考える。

他競技のあり方を目にして、なんとか踏みとどまる。本来ならペナルティーはいっぺんも起きてはならぬ、という根幹の精神に引き寄せれば、罪の質に釣り合わぬ罰の重さも「よい反則」浸透の歯止めとなりうる。「したもん勝ち」はラグビーの辞書には未収録でよい。

9月23日水曜午前、花園の東京都予選でしびれる試合を観戦できた。明治学院東村山高校グラウンドでの第一地区1回戦、都立小山台高校と都立府中西高校がぶつかった。14―12。前者がゴールの差で生き残った。

会場で関係者に聞くと「このところの対戦からすると小山台が有利」。さあ開始キックオフ。すぐに接戦になるとわかった。通りすがりの観戦者にも府中西の気力と体力の充実は伝わってくるのである。

展開を仕掛ける相手のつなぎを迷いのないタックルで乱す。ダイレクトに前へ出るアタックだって悪くない。ただし好機にスコアできぬ小山台も、焦りがないと記せばきれいすぎるが、なお、ぐらつきはしなかった。府中西の評判のモールを予習および反復の成果だろう防御の結束で止める。地面のボール争奪も激しいのに規律を手放さない。

近くの府中西ファンの男性がつぶやいた。
 「両方きついんだよ、これは」
 いい一言だなあ。まさにそうだ。だから、おもしろかった。ゆえに切なかった。

小山台の宍戸亮太、府中西の野口友輔両監督の確かな指導力を誇らしく感じた。シードなんて無縁、1回戦でぶつかる公立校がここまで心と骨を磨いてきた。練られた戦法があり、実践のために身につけたスキルがあった。全国強豪の競技レベルと等しくはない。だが、ここが日本ラグビーの足腰だ。言葉の上滑りしない本物の「アカデミー」なのである。

最後の最後まで奮闘の府中西に悔やまれるのは規律だろう。まず断るとレフェリーはできるだけ無垢な青春を支えようと、どこまでもフェアであった。なるだけプレーを続けさせようとした。惜敗のチームのペナルティー(勢いゆえの各種オフサイドなど)はきっと本当にペナルティーだった。

ただし、そこに「戦術的ファウル」の忍び入るスペースはなかった、ルイス・スアレスの化け物のごときエゴイズム、その砂粒サイズのかけらすらありはしない。たまに腕の長く伸びる笛の音が響けば、それは火の玉の攻守につきもの、ラグビーの普通の反則だった。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

過去のコラム