コラム「友情と尊敬」

第156回「永遠の怪童は夏に悔いた」 藤島 大

長崎に原爆が落ちた日に書き始めた。爆心地近くの城山小学校の児童教職員の犠牲者は「約1400人」と知る。慣れてはいけない。ただただ、おそろしい数字だ。

8月9日になると、かつての日本代表のたくましいプロップを思い出す。話したのはいっぺん限りなのに、ノートや録音テープを机の奥から引き出して、なんべんでも書き残したくなる。

2007年の夏。長崎県の諫早。その人は言った。「親の年金と原爆手帳」。それで暮らしているのだと。正確には父の「被爆者健康管理手当」。かつて世界選抜のジャージィをまとった頑丈な男は60歳になっていた。この8年後に死去。存命なら75歳になる。

原進。近鉄とジャパンの際立つ怪力だった。プロレス好きには「阿修羅・原」のリング名も懐かしいはずだ。現役最盛期のサイズは「182㎝・87㎏」。当時においては破格の体格である。しかも100mを「11秒7」で走った。1971年の伝説のイングランド戦(19-27、3-6)の背番号1。76年にはウェールズのカーディフRFC創立100年記念試合の世界選抜に招かれてフランカーで出場している。栄光の直後、押して、タックルをちぎりながら駆けたタフガイは忽然とラグビー界から姿を消す。

15年前の取材で本人が明かした。「やっぱり俺はラグビー。だから近鉄時代のミスがさみしいところだよね」。反則をした。危険なタックル? 違う。「経済的に納得いかないものがあった。それを埋めるのに、ちょっとやっちゃいけない方法をとったから」。観光バスの手配の職責にあって入金のあれこれがあった。9時から5時まで勤務、夜に猛練習、合宿は通常の休暇を消化という純粋アマチュアの時代だ。

プロレス転向。「仕事と割り切っていたんだけどね。蹴りが当たってないのに痛い顔はできない。普通は当たるか当たらないかで引くんだけど逆に突っ込んでいく」。還暦にも精悍な表情、ただし、まぶたの筋肉は切れたまま垂れ下がっていた。

リングの外でも、うまく処世はできない。諫早の自宅で聞いた例。アメリカ修行を突然思い立った。即、実行。3万円だけを握り締めて出発した。「そしたら成田までタクシー代が2万円」。この時点で凡人とは違う。空港で腕時計を忘れたと気づいた。ないと困るだろう。スヌーピーの柄のついた廉価品を買うと、それで6000円。到着後、4000円しかなく、迎えの人に「ごちそうする余裕がないので」空腹のまま長時間移動を続けた。

以上は微笑の逸話だが、まあ、それよりスケールの大きな散財がどうやらあった。プロレス界にも居場所はなくなる。以後、1997年には故郷に戻り、父の介護をしながら、自給自足にも近い生活を送った。

諫早農業高校時代の原進は、県下にとどろく相撲の猛者で鳴らした。「2年のころから」ラグビー部の活動も兼ねた。試合に起用されると「ドカン」いっぺんとうのCTBだった。各大学相撲部のスカウトの声はしきりにかかるも、唯一、ラグビーで誘われた東洋大学へ進んだ。初心者同然なのに入学2年目、いまの表現なら日本代表スコッドに呼ばれた。

もともとは教員志望。郷里で高校生を教えたかった。リングをいわば追われて、すべてを失い、ふいに願いはかなった。教育委員会を通して母校の指導の機会がめぐる。

「俺、子どもが好きだから。ちょこちょこと2年間教えた」。体づくりならお手のものだった。しかし教員の監督が他校から戻ってきた。「俺がいたらやりにくいだろう」と身を引いた。「最初に教えた子が3年のときに花園に出たんだけどね」。小声でそう話した。2002年度、諫早農業高校、花園出場。相撲部兼任部員で元世界選抜の大先輩の教えがあればこそ、と、もはや検証はできないけれど、事実として、そのころの長崎北陽台、長崎北、長崎南山の壁に穴はあいた。その流れに確かに関わった。「原進のラグビー」として記録されるべきだ。

インタビューで忘れられない場面がある。同行の写真家が、坂道でカメラを構えながら「僕は撮るのに時間がかかります。でも絶対によい写真にしますから」となんとも誠実な口調で述べた。とたんに被写体の元プロップの目が優しくなった。

「前にどこかで会ったことがあるだろう」

そんなことはないのに声をかけた。純情と純情が焼けるような空気に交錯した。

阿修羅のごとく。恍惚(イングランド戦)と悔恨を生き抜いた。強くて弱く、弱くて強い永遠の怪童の言葉にいつか背中が震えた。ラグビーマガジンの田村一博編集長の取材による。25年前に諫早の丘の上で語ったそうだ。

「俺は霞を食べて生きていく仙人みたいな生活を送りたい。山の中にほったて小屋を建て、そこに子どもたちを呼んで、野の中で遊ぶ。いろんな遊びを教えてやる」

自由に走り回る子どもたちが崖を転がり落ちぬようにキャッチしてあげる。もし、そうなら『ライ麦畑でつかまえて』である。主人公、ホールデン・コールフィールド少年の文句が重なる。

<I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be>。ライ麦畑でつかまえる人になりたい。おかしなことはわかってる。でも僕が本当になりたいのはそれだけなんだ。

このとき原進は50歳。傷だらけの天使がそこにいた。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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