コラム「友情と尊敬」

第62回「天理高校」 藤島 大

負けて、なお光を放つ。白い光がまとわりつく。天理高校、いまだ忘れ難い。

日本代表のジョン・カーワン監督は、やはり純白のジャージィの高校生のラインアウトからのライン攻撃を見るべきだ。もし、まだであるなら、すぐに映像を取り寄せてもらいたい。仕掛けの確かさ。精度の高さ。トライへと結ばれる突破の際立つほどの成功率。あれは日本のラグビーの最も良質な要素だ。

いわゆる「タメの理論」である。タメ。前の仲間がパスを放る瞬間まで浅い位置でジッと我慢して、はやる気持ちを抑えながら、鍛錬で培われた「短い距離での加速力」でスッと球を受ける。出てくるディフェンスを懐に呼び込み、出てこなければ、こちらから前へ突っかける。机上の論では、穴のあかぬはずの防御が通用しない。パーンと入れ替わるように白いランナーは裏へ出た。

いま「スッと」とか「パーン」とか書いた。いつも思うのだが、ジャパンのラグビーは、擬音の連続で表現されるときが強い。シュッと走り、パパーンと倒し、パパッとパスを通して、スカーンと勝ったら、ドドッと涙が出る。ついでに翻訳不可能な言葉が真ん中で使われると強い。「タメ」の本当のニュアンスなんて訳しにくいはずなのだ。

天理のサインプレーには「裏」が生きている。オトリのランナーに放ってもスパーンと抜けそうだ。浅い位置でのタメが効いているからである。ああいうライン攻撃を久しぶりに見た。内から外へ流してくるディフェンス法に通用する事実が証明されたのも収穫だった。
武田裕之監督をはじめ、あらためて簡単ではない技術を教え込んだ天理の指導陣に心からの敬意を表したい。日本列島のラグビー人よ、タメを捨てることなかれ。

そんなに見事な天理は、惜しくも準々決勝に散った。長崎北陽台の文字通り「水ももらさぬ」強固なバインドの前に。

長崎北陽台は、勝負どころのゴール前では、執拗なピック&ドライブを繰り返す。ジワーっと当たって、また拾ってジワリジワリ。もうひとつジワリ。なんべんも、なんべんも。

現象だけをとらえると単調な力攻めのようなのに、見る側は退屈しない。ドーンというパワーと体格頼りではなく、技術と気持ちでジリジリと前へ進むからだ。北陽台の選手は絶対に孤独じゃない。ひとりぼっちになる瞬間すらない。必ず、仲間が助けてくれる。ピックする。身を低くして粘りながら前へ出る。仲間が背中に張りつく。言葉のまことの意味で密着する。球の保持者を引っ張り上げるように押し込んでいく。だから少しずつでも必ず進むしターンオーバーされない。

機を見てバックスの展開もおりまぜるのでラグビーそのものに偏った印象は薄い。なによりも、選手が「北陽台のラグビー」と指導者を信じ、指導者は選手を信じている。そのことが観客席やテレビ画面にも伝わってくる。芯を「信」が貫いている。

北陽台から長崎大学出身、選手歴に派手なところのない松尾邦彦監督の指導力は確かだ。「心」を説いて、まるで違和感がない。

60歳、同校の浦敏明コーチは、かつて同校を監督として率いて、いま定年退職後の再任用制度によって現場へ戻った。花園の通路で、その名指導者に聞いてみた。いま日本中のチームの鍛え方が足りないと思いませんか?

「思いますね。みんな外国のコーチングの影響を受け過ぎているのではないでしょうか。日本人のラグビーは、もっとスペースに入り込んでいくようでないと」

狭いスペースであっても攻略していく。天理と長崎北陽台の方法は異なるけれど、めざすところは同じなのかもしれなかった。前者のライン攻撃、後者の究極のキープ・ザ・ボール、冗談でなく、大学はもちろん、トップリーグのチームにも参考になる。きっとジャパンにだって。

大学では、筑波がよかった。早稲田との対抗戦では、ターンオーバーをされず、時間をうまく消費する攻撃を練り上げて、この段階では発展途上だった相手防御の構造を見きわめたサインプレーも効果的だった。これまでの筑波は、どこか学習そのものが目的化したような「勝負弱さ」もつきまとったが、今季については現実の試合での迫力を失わず、それが同志社戦の勝利を呼んだ。キャプテンでフランカー、島弘一郎の顔は、理屈ではなく勝負の世界に呼吸していた。いかにも帝京戦完敗は残念だった。ただし、あれは準決勝で早稲田に迫った帝京の実力を称えるべきかもしれれない。

ことに高校ラグビーで、たまに目にする「選手が思い切りプレーしないまま敗れる」例には考えさせられる。個々の素質は十分なのに、まさに心が解き放たれていない。「証拠を出せ」と問われたら困るが、長くスポーツを追っているとわかる。なぜ思い切りがないのか。それは日常的に選手たちが「減点法」で評価されているからである。いざ大試合なのに、次にくる仲間を信じてスパーンと前へ出切るディフェンスができない。抜かれると機械的にメンバーから外されたり、きつく叱られてきたからだ。だから、なんとなく自分のせいではないように抜かれるクセがついてしまっている。

指導者が自分の選んだ15人を信じておらず、選手も指導者を信じていない。つまりは不利や劣勢を乗り切る芯がない。そこにあるチームが力を発揮できずに負けたら、選手のせいでも、レフェリーのせいでもなく、絶対に指導者のせいなのである。ここだけは永遠に変わらない。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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