コラム「友情と尊敬」

第12回「ジャパンと教育的段階」 藤島 大

ジャパンがイングランド代表に連敗した。とても残念である。
英国→カナダ→日本と1ヶ月におよぶ長旅、しかも主力である7名は英国→ニュージーランド→カナダ→日本と移動してきた。ひとつ上のランクの代表スコッドがニュージーランド/豪州遠征を行っており、途中から合流したのだ。つまり来日のイングランドは疲れ切っており、実質は2軍に相当するA代表である。湿度の高い気候を考慮しても、ジャパンには大変な金星のチャンスのはずだった。

7月6日の東京・国立競技場での最終戦(20ー55)、試合直後、イングランドの選手たちが不思議そうにロッカー室前のスペースを眺めていた。ジャパンの何人かが多くの報道陣に囲まれている。テレビ用カメラの照明があたる。実際の報道量はともかく、その様子は、まるで人気競技のヒーローの扱いである。
「この程度の強さでこんなに注目されているのか」
きっと誇り高き母国の勇士はそう思っただろう。

本稿筆者の職業はスポーツライターだから、疲れているにも関わらず取材に応じてくれる選手たちには、ひたすら感謝したい。まったく誠実な態度である。ありがたい。これは本心だ。
さらには対イングランドのシリーズ、ジャパンの前へ出るタックル、体を張る気持ちは観客席にも伝わってきた。だらしのない試合をしたわけではない。

そのことを前提に、取材の場で、少し気になった事実がある。
自分のプレーの是非よりもチーム状態の分析(つまり、あまりうまくいっていないということを)を熱く語る。
一部の選手に、そんな傾向がなくはなかった。
その種の質問が投げかけられたからだとは思う。意を決した問題提起なのかもしれない。もとより悪意などありはしない。

それにしても…。

だって、あんなにあっさりタックルを外されたではないか。抜かれたら歩かずに走って戻っておくれ。
ジャパンなんて夢の夢、元へっぽこプレイヤーも、つい胸中の叫びを抑えられない。

仮に社会人大会決勝、抜けてきたランナーに簡単に自分が抜き去られたら。大学の伝統の1戦、放るべきパスを放れなかったら。勝負に敗れて、なお記者団に「チーム事情」を語るだろうか。ただただ落胆するのではないか。

もちろん、このイングランド戦とワールドカップの決闘は違うかもしれない。だが練習試合とも異なる。
飛車角落ちとはいえ、胸に薔薇の刺繍を縫いつけたイングランドと約2万の自国ファンの前で戦えるのだ。
もっと喜びも悲しみも悔しさも色濃くていいはずだ。

残念ながら、ただいまのところジャパンは、それぞれの選手のファイトとは別に、ひとつの闘争集団には達していない。そして、「あそこでタックルを外された」「あのパスをしくじった」という後悔のイメージを少なくない選手は持てていない。
つまり「ジャパン標準」が明らかでない。だから、ひとつのプレーの失敗や怠慢は深刻に受け止められず、すべて「チームづくり」へ転嫁される。

チームのオキテがない→求められるプレーの基準があいまい→ミス多発→あいまいなチームへのあいまいな責任の逃避…どうにも悪い流れである。
余談ながら、こうした状況では、しばしば、危機予知能力があったり、きまじめに多くのプレーに参加する選手ほどミスが目立ったりする。どうせなら「そこにいない」ほうがマイナスの印象は薄くなるのだ。たとえば小さなSHが巨漢に吹っ飛ばされる。「なんとひ弱な」。でも別の選手ならそこにいなかったかもしれない。本当のミスと「もうひと仕事ゆえの失敗」の峻別は必要だ。選手の評価には慎重を要する。

さて「ジャパン標準」。
日本代表の宿命として、標的の試合では、相手のほうが体格に恵まれ、伝統や環境も豊かだ。
それでも勝つには。ともかく明快に標準を打ち立てなくてはならない。
それが全国の少年少女スクール、高校、高専、大学などなど指導現場の指針となる。パワー、スピード、ひたむきさ…各チームの色はさまざまで当然だ。ただ少なくとも、これが「ジャパンの条件」と、それぞれの指導者と選手が認識できることは大切だ。

持久力とタックル力と反応速度と集中力(知性)重視。個別のプレーでは、たとえば、FBは抜けてきた相手に迷わず前へ詰めて激しくタックルする。待って時間を稼ぐより「まず倒す」を優先ーーというふうに、ジャパンの重視する要素をはっきりさせる。前回も本欄に書いた「生き方」である。

そうした標準をもてないと、「何がよくて何が悪いのか」がわからない。
日本代表だけでなく、日本のラグビーにとっても「何がよいのか…」が。

イングランド戦後、もうひとつ気がかりなコメントがあった。
FWのひとりが以下の主旨を言った。

「前5人はクリーンアウト(ラックのスウィープ)に徹しろと指示されてますが、いちいち遠くまで走ると効率が悪いので、選手間の判断で残る時は残ります」

監督の意向を無視しているという話をしたいのではない。それはそれで引っかかりはするが、ひとまずスキップしたい。ここでは高校など現場のコーチやキャプテンに「教育的段階」の問題を投げかけたいのだ。
 
1999年W杯の決勝前、フランスの練習を取材に訪れた日本の一部記者は、15人で行われる「コンビネーション合わせ」に驚いた。スクラムがほどける。フロントローは最初から前へ走る。右フランカーは球の動きとは無関係に右へ。左フランカーは左へ。右ロックは右、左ロックは左。現在では、前5人がフィールド中央の球の確保に徹し、外への展開ではあらかじめフランカーがWTBの背後に位置して展開後の球を守る場面が見られる。なるほどルールとその解釈の改変にともなう「進化」なのかもしれない。

ジャパンにおいても、FWの仕事の効率的な分担はありうる。
しかし簡単に「ムダだから」と流されると、「ちょっと待てよ」と小声で反論したくもなる。

ジャパンでも、地方の公立高校でも、体の小さな側、挑む側が、強豪・巨漢・強敵を倒すなら、なんといっても、骨惜しみとは無縁の勇士の集合体でなくてはならない。

「どんな遠くの球でも俺(私)が獲ってやる」の心意気とタフネスと技術は不可欠だ。
高校で、大学1年で、あまりにもルール適応の合理性を追うと、資質や条件で同程度の相手までには効果的でも、強大な敵を倒す逞しさや芯の強さは培われない。体格、パワーの大小強弱とは別次元の「強さ」がなくて金星はありえまい。しょせん「うまさ」には限界があるのだ。

ラックがあったら思わず突っ込んでしまう。FW8人が本能的に全員で球を獲りにいく。
まず、そういう選手を鍛え育て、しかるべき段階で「ムダを省く」。この過程が大事だ。
思わず相手の腹、あるいは膝下に突き刺さるタックラーを養成しておいて、場合によっては「上で球を殺せ」。球がこぼれたら3人がかりで飛び込んで頭をぶつけて、それからの「役割分担」。

海外列強のように幼少時にラグビーを存分に楽しむ環境があれば、過程は違ってくるだろう。
まずはラグビーの構造を自由に体で覚え、効率を身につけ、10代後半に「ムダをいとわぬ闘争」を学び、最上のレベルで「効率の極」を駆使するというように…。
しかし高校で競技歴を始める環境なら、できるだけ早い段階で「思わず突き刺さる」人間を仕込むべきだ。

これも余談ながら、ジャパンの難波英樹のフランカーはおもしろい(CTB不適格という意味ではまったくない)。タックル、タックル、またタックル。大きくはない体に染みついた球と人への執着。ひたむきな姿勢は、きっと観客席の感動を招くはずだ。

イングランド戦のジャパンに戻る。
それぞれの選手の考える「闘争」と「効率」の認識が重ならない。
これがジャパンのスクラムだ。ジャパンのタックルだ。ジャパンの魂なのだ。なんとか、くっきりと旗は掲げられないものか。

ほとんど時間切れは厳粛な事実だ。
それでも元木由記雄のもはや崇高なような奮闘を凝視すれば、何かを信じたくもなる。
まずは、思わず突っ込む、突き刺さる、飛び込む、そういう人格から優先に芝へ送り出すことだ。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

過去のコラム