コラム「友情と尊敬」

第152回「勝負の前の勝負」 藤島 大

先日、同年代のラグビー経験者と縁を得て話した。2019年のワールドカップではビジネスのつながりで特等の席に招かれたそうだ。競技場内の部屋で飲食しながら各界の名士と社交、キックオフを待つ。

しかし、その人は決まってそこを抜け出した。

「僕はウォームアップを見るのが好きなんです」

かくして秘密結社「勝負の前に勝負は決まる同盟」のリストにまたひとり会員が加わった。2年前の横浜、準決勝前のイングランドのウォームアップは実に引き締まっていた。決勝のそれは「ほんの少しだけ緩んだ」。一例で、そういうふうに観察する。

2006年元日の花園にも同志はいた。準々決勝4試合がこれから始まるメインのスタジアムではなく、なぜか無人の第2グラウンド脇の仮に組まれたようなスタンドのいちばん隅のいちばん上に座っている。風見鶏よろしく上半身がくるくる動いて落ち着かない。

変なやつがいるなあ。と思ったら知り合いだった。K・Kはかつて早稲田大学ラグビー部に所属していた。本稿筆者が同部コーチのときの部員だ。熊本の濟々黌高校出身のスクラムハーフ。卒業後は故郷のテレビ局に就職したはずだ。

「取材?」と聞くと「いえ」と答えた。

なんでも放送局をやめて教職に転じた。高校のラグビー部の指導の勉強に自費でやってきた。奇妙な席にいる理由は以下の通りだった。すべてのチームの大勝負の前のウォームアップが見える。必要とあらば体をひねって(と実践してくれた)メインのゲームも「一応は観戦できる」。いわく「試合なら熊本に帰ってから録画で確かめられる。しかしウォームアップは花園に足を運ばなくては見られない」。正しい。そして気になる一言。

「そのウォームアップがどこも同じなんです」

海外のノウハウを借りてきたみたいな画一的な流ればかりに映った(当時の傾向。現在のほうが各校の色が出ている)。ただし「フシミだけはちょっと違った」。京都の伏見工業高校である。無名教員のそんな感覚を反映するかのように、浅く正確なパスで防御を崩す独自のスタイルで優勝を遂げた。 神奈川の桐蔭学園高校とのファイナルのスコアは36ー12である。

花園のウォームアップ場の常連には先駆者がいる。大阪朝鮮高級学校ラグビー部を全国の強豪へと牽引した熱血指導者、金信男元監督である。同校は1994年に門戸が開くまでは公式大会出場を許されなかった。高校ラグビーのインナーサークルに入れないので独学しかなかった。

さいわい花園まで学校からは直線で2㎞ほど。大会や試合があるたびに「朝からサンドイッチ持って練習場にへばりつく。メインのスタンドに座ったことないですよ。ともかくウォームアップを見るのが楽しみでした。教材はそれしかなかった」。往年の新日鐵釜石、早稲田大学、スコットランド代表が印象に残った。

次は女子バレーボールの話。1976年7月30日のモントリオール。日本代表はソビエト連邦との五輪決勝を前に会場の隣の体育館でウォームアップに汗した。

ソ連も同じ場所で最後の調整に入っていた。両国を仕切るためのカーテンが引かれた。ところが寸法足らずで真ん中のところで1mほど開いてしまう。ソ連の監督はどうしても気になる様子でせわしなく閉じようとしていた。
 
世界最高のセッターとうたわれた名手、松田紀子さんは36年後、北海道の釧路でこう言った。「もう、あと少しで決勝戦ですよ。隠してもたいして変わらないと思うんですけども、そこに監督さんが立ちはだかってました。あれ、向こうのほうが弱いかな。ちょっと困ってるんじゃないかいって」。3ー0。日本の完勝だった。

ラグビーに戻る。前述のように筆者は1996年に早稲田大学のコーチになると、それまでの「勝負の前に勝負は決まる同盟」の活動の成果を発揮せんと、監督やヘッドコーチにいくつか頼んだ。
 
ひとつは公式戦の前、先発とリザーブ全員がおそろいのトラックスーツを着る。あのころは、どの大学もバラバラ、おのおのの所持品をまとった。スズキスポーツにエンジ色の上下を発注した(コーチにも支給された。愛着があって、いまも真冬の散歩で着用する)。

もうひとつ。たとえば秩父宮ラグビー場のロッカー室からウォームアップへと向かう際、ひとりも欠けず、体をくっつけるように隊列をなす。当時は負傷箇所へのテーピングが盛んで(来日したオーストラリアの選手が不思議がっていた。あんなに巻いたら相手に弱みを教えるようなもんじゃないか)、何人かはそれで遅れがちだった。テーピングの必要がある者は会場に先に入ってすませておくように手配した。

ウォームアップは時間が進むにつれて小さなスペースに多くの人数がひしめく組み立てにした。だんだん密着していく。開くより閉じる感じ。大切なのは、ひとりずつの体が温まり軽くなるより、その選手と別の選手、ひとりとひとりのあいだの空間がネバネバと重くなることだ。土壇場での粘りの正体である。

2003年11月22日。シドニーでのワールドカップ決勝の前。イングランドの選手は塊のごとくウォームアップのフィールドへ走り出た。そろいのTシャツを全員がまとっていた。「勝つ」。記者席で感じた。ややあってハンドダミーにタックル。すぐさま本気で仰向けに倒す。激しくて危険なほどだった。「絶対勝つ」と確信した。地元のワラビーズに20ー17。どう転んでもおかしくない大接戦なのに、わが同盟の解釈では必然の結果だった。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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