コラム「友情と尊敬」

第154回「民主主義RFC」
『闘争の倫理』ダイジェスト版の公開に寄せて- 藤島 大

ウクライナのマウリポリに飛んで市民の脱出を手助けするスキルも勇気もない。ロシアのモスクワへ渡り「あなたたちの政府はおかしいじゃないか」と広場で声を張り上げる覚悟も度胸もない。

だから、ここに、このスペースに唱えよう。「戦争をしないためのラグビー」について。正確には「戦争を阻むことと身近なラグビー部の関係」を。過去、何度も書いた。残念にも、また出番が訪れた。

結論。現代の戦争を止めるのは「民主主義」しかない。

ロシアのような国家が戦争、というより、侵略に踏み切る。つい「アメリカ、やっちまえ」と叫ぶ勇ましい人々が出てくる。インスタントで、その分、素直な心情だ。しかし、本当にそうしたら「大戦」の勃発である。膨大な血や葬送曲がのべつ流れ、最悪、放射能や細菌がまき散らされる。

おかしな独裁者がいる。「俺様はこうありたい」というゆがんだ自己実現のために隣国に押し入る。なんでも思い通りになると、それはそれで退屈になって、どこかで無理を通したくなる。「まさかをしてのけて歴史に名を刻む私」。ひん曲がった功名心が罪なき民を死へ追いやる。

それを止めるのは、そこに暮らす人間の言動しかない。大統領がおのれの任期を思うがままにしたり、言論や集会の自由を踏みつぶしたり、政敵に毒を盛る前、あるいは、そうした行為を開始した直後に「ちょっと待て」と異を唱える。大規模な運動を起こす。ほかに手はないのだ。

あらためて「戦争をしないためのラグビー」。そのことを学生に伝えた日本代表の往時の名監督で大学教員であった大西鐵之祐(敬称略)は次のように筆者に話した。

「昭和7年までなら止められた。昭和12年になったらもうダメだ。どんなに良心的な人間も拷問が始まったら沈黙する」

昭和20年、1945年の敗北へ至る戦争の道、ある段階までなら「異議あり」と発声できた。投票で意思を示せた。著書『闘争の倫理』(鉄筆文庫)の「はじめに」では、1987年3月の初版刊行時の日本国内の「政治の状況」をこう述べている。長いが引用する。

「大東亜戦争突入前数年にわたる政府の情況にだんだん似てきているように思えてならないのである。アメリカとの安全保障条約を盾とした軍備の増強と施設の充実、仮想敵国の想定、憲法の改正、国家機密法の制定、教科書検定の強化、経済復興に伴う青少年教育の批判、歓楽街、享楽業に対する統制の強化、低調なる議会政治に対する国民の政治ばなれ、野党の弱体化と商業ジャーナリズムの機能の限界、教育課程への武道の復活、国民体育大会への銃剣術の加入、国旗国歌への感情的表徴の強化、国際経済逼迫に伴う景気回復のための軍需産業の復活等々」

あふれ出るように列挙して続ける。

「これらのことは大したことではないではないかと思われるだろう。われわれも戦争突入前はそう思っていたのである」

このとき70歳、若き日に徴兵され苛烈な戦場を体験した当事者の実感である。

「ところがいつの間にか戦争に突入していった。(略)マスコミの統制と政治的反対派への実力行使がいかに社会情勢を変えていくかを考えれば、われわれは今にしてこうした事態が起こる前にいかに対処するかを考え防止していかないと、大勢が決められてからではもう遅いのである」

良識を棄てぬロシアの民衆は、まさにいまこのとき、痛感しているはずだ。15年前なのか、10年前なのか、ともかく「大勢が決められる前」に立ち上がるべきだったと。

大西鐵之祐は願った。真剣勝負のラグビーに浸り、その活動を通して「合法か非合法か」よりも「きれいかきたないか」を優先させ、大試合のピンチやチャンスのような緊急事態にあって、みずから「きれい」を選ぶ力を身につけた者が、社会に散って、戦争へ近づく兆候を察知、投票権をいかして、それを「防止」するのだと。

ラグビーの名将は、弱々しい平和主義者とは違う。「国家」を信じるのは危険と看破しながらも、民族の気概はすべての根底にあった。平和を手放さぬ決意があって、たとえば打倒イングランドの勝負に激しく打って出る。自分を育んだラグビー部、そのグラウンドや仲間や恩師、いわば愛郷のために強豪国の代表に挑みかかる。終生、借り物ではない「日本のラグビー」を追い求めた。

1987年に大西鐵之祐の危惧した「戦争突入」は、いまのところ避けられてきた。民主主義が曲がりなりにも機能してきたからだ。そうであるなら、いかに些細であれ民主主義の後退のシグナルにはいっそう敏感であらねばならない。

 あなたのかかわるラグビー部、スクール、クラブチームに民主主義はあるのか。そこが問われる。ボスによる私物化を許せば、おかしなことは必ず始まる。ベテラン監督が定年で退く。よかれと思った「総監督」就任が、じんわりと閉塞をもたらす。

グラウンドの指導方針や選手選考は最後は監督が決定すればよい。「もっとも優しく、もっとも賢い独裁者=そこにいる人間の尊厳を守り抜き、異論に誠実に耳を傾け、そのうえで、ひとりの責任をもって決める」は勝負論の観点ではわかりやすい修辞だ。

ただし、最後はひとりで決めるからこそ、そこに至る過程は徹底的に公正でオープンであったほうがよい。新人もベテランもコーチも対等に遠慮なしの意思をぶつけ合う。そのほうが「ひどい間違い」を回避できる。そして監督は一定の期間をもって潔く引く。どんなに注意しても力を持ち続ければ謙虚さはかすれる。

有能な指導者が長年ひとりで引っ張る。まっすぐ、じゃまされずに進むので、結果は滑らかに出る。ただし、もし岩が急に横から転がってきたら気づかずにぶつかる。ふいの断崖にそのまま落ちる。

民主主義はよれよれと進む。監督の任期があり、キャプテンやコーチ、ひとりひとりの部員が「これはあまりにもおかしい」と考えたら意見もできる。まどろこしくても「岩が転がってくる。危ない」と、だれかが騒いでよけられる。

そのことが「戦争」を阻む。ラグビーの場の「戦争」とは、ゲームでの闘争ではなく、クラブ内の人権侵害である。

「無意味な戦争に血を流すのなら、現在の貴重な平和を守るために命がけで戦う覚悟が必要であろう」(『闘争の倫理』)

ラグビーのクラブの民主主義を守っても物理的な「命」は奪われない。せいぜい立場が悪くなるくらいだろう。「文句あります」に向き合うチームが文句なしの勝利をつかむのだ。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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