第172回「ラグビー部員に(もう少し)長い休みを」
藤島 大
大学からリーグワンへ。帝京の青木恵斗に小村真也(ともにヴェルブリッツ)、早稲田の佐藤健次(ワイルドナイツ)などなど、続々と「アーリーエントリー」組の名は明らかとなった。卒業を待たず、ささやかなモラトリアムも拒んで、さっそく国内最高峰の一線へ加わる。
そうしたいからそうする。本人の覚悟であり、尊い。ファンにすれば「あのときのあいつがもうここにいる」という楽しみを得られる。
ただ。ことにファイナルやその近辺まで深くシーズンを過ごした学生さんには、のんびり「青春18きっぷ」なんか駆使しながら、ひとり旅でもさせてあげたいなあ、なんて、親戚のおじさんのような気持ちにもなる。まあトップ級の選手がトップ級のクラブへ進むのだから異議はない。
ただ。ただ。強豪とされる大学に入学、ラグビー部に飛び込んでからの4年、もう少しシーズンオフ(まとまった休み)があったらよいのに、と、ここはもう少し大きな声で唱えたい。
2024年度の帝京は1月13日のファイナルを終え、1週間ほどで始動、夏のオフは7月27日より6日間であった。早稲田は23年暮れに選手権で敗退、FWは年が明けて1月9日、バックスは同15日に活動を始めた。6月末の1週間、夏合宿後の2日間がオフ。このクラスなら、どこも同じような期間や密度で鍛練に励む。
遠く1980年前後、筆者は早稲田のラグビー部に在籍した。当時の年間スケジュールは、決勝まで進んだとして、1月後半~3月中旬、6月後半~8月初めまでは原則的にオフだった。練習そのものは厳しく緊張に満ちていた。新入の70人近くが門を叩いて、全員が一般入試なのでやめるのも自由という背景はあるにせよ、残るのは20人に満たぬほどだった。グラウンドにいるとひどく長く感じたが、解放される数週間が救いだった。
実は2008年に「もっとオフを」と「ラグビーマガジン」のコラムに書いた。
「シーズン終了のレベルに応じて大学選手権出場クラスなら6月第3週から8月第1週まではオフというように協会の責任で決めて、協定違反には厳罰を科す。抜け穴対策も細かく決める。不思議なもので『みんながそうすれば』全体の競技力はさほど落ちない」
その後、コロナ禍を除き、総じて上位リーグの各校に活動期間短縮の気配はない。どこかがみっちり計画に沿って力をつければ、追いかける側もそうなる。自然な後戻りは考えにくい。ならばルールを定めるほかはなく、仮にそうなっても「集団自主トレーニング」などの名目のグレーゾーンが盛んになるおそれはある。
ここは、なんとか、みんなで「部員の自由な時間の確保」に知恵をしぼろうではないか。しばしのオフ、ひととき関心のある学問に浸ってみたり、映画や演劇や音楽といった文化に接近したり、知らぬ土地を訪ねる貧乏旅で見聞を広める。中心選手もそうでなくとも、そんな経験をして卒業後の社会に散る。こちらのほうが長い射程では「ラグビー国力」が増し、ひいてはジャパンも強くなる。
あくまでもチャンピシップのラグビーを追求する。負けたら絶望するほど浸る。しかし「ラグビー一色」の手前には踏みとどまる。万事、よいこと、よいものは際(きわ)にあるのだ。
昔々、学生日本一をめざしても、それなりに拘束されぬ日は確保されていた。もはや古びた郷愁か。時代は違うと否定されるべきだろうか。うーん、どうだろう。
戦法の構築やスキルの開発や身体の手入れにおいて「昔はよかった」は危険だ。でも「学生なのだからラグビーのみに染まるのは危険だ」という観点は危険ではない。先に述べた1980年前後、1935年前後に早稲田の部員であった大先輩が現役に言った。
「用具やグラウンドの整備は業者に委託するなどして、1年生も練習後はすぐ自由になって喫茶店などで仲間とラグビーの理論の研究をしたり、文学など他の教養も身につけたほうがよい。わたしたちはそうしていた」
白状するとピンとこなかった。たとえばボール磨き(当時は皮革でピカピカにするのに時間を要した)のために人を雇うなんて貴族的じゃないか。昔は贅沢だ。いまならわかる。先人の意見は「大学生とは何か」という考察により導かれていた。そこに歳月を超える理はある。
おしまいに個人的な思い出を。ラグビー部員のころ、いまよりうんと長い休みのおかげで、単発のアルバイトや小旅行ができた。
確か2年の夏。ある女子大学の建設現場の日雇い労働に励んだ。休憩に喉を潤そうと自動販売機へ硬貨を投ずると、なぜかジュースは出てこない。返金レバーも無力。すると一言もしゃべらずに働く老いた職人さんが、どこかで見ていたのだろう、100円玉をこちらに黙って差し出した。日に焼けた深いしわが優しかった。
あの瞬間はそれからの自分に関係している。もしシーズンオフがちっぽけなら忘れられぬ人生の一幕はなかった。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。