コラム「友情と尊敬」

第18回「前のパスは難しい」 藤島 大

あらためて思った。この国のレフェリーは、なんと「スロウフォワード」が好きなのか。いや正確には、なんと「スロウフォワードを取り締まること」が好きなのだろうか。

大晦日をはさんで花園ラグビー場にいた。果敢なオープン攻撃、繊細なショートパス、笛の音、腕で前方への球の軌跡をこしらえるようなシグナル、防御側の選手・ベンチ・応援者、レフェリーを評価するアセッサーと呼ばれる人々を除いて、すべてのラグビー好きが失望のため息をもらす。つまらない。そして、ここが大切なのだが、本当はパスを前へ投げていない例も少なくないのだ。

かねて持論があった。へっぽこながらバックスの経験者として次の事実を確信していた。

スロウフォワードは難しい。

自分の体が前へ向いていて、後方から走ってくる人間に対して、およそ自分の体より前へパスを放るのは簡単ではない。とても難しいのである。ときおりJスポーツの解説をさせてもらい、待ってましたの取り締まりと遭遇するたびに、つぶやいていた。
「スロウフォワードは難しいんです」と。

昨年のワールドカップ取材のためにシドニー滞在中、ささやかな自説を強化してくれる素材とめぐり合った。
オーストラリアのラグビー協会の作成したコーチとレフェリーのための研究ビデオを見る機会に恵まれたのだ。
そこに「フォワードパスとは何か」の項目があった。

選手の実技を通して実験していく。目の錯覚への注意である。とりわけパスを投げる選手が、ただちにタックルを浴びた場合が危ない。投げ手の体が急速に止まるので、パスが前へ流れたように映る。しかしグラフィックなどを用いて検証するとパスの軌道はうしろなのである。かねてからタックルをされて球が前へ飛んだら、それはパスでなく、むしろノックオンのはずだ…と信じていた。つまり我が意を得た。うしろからくる人間につなごうとすれば、わずかであれ斜め後方に投げるのが自然なのである。

ビデオには次のようなコメントがあった。
「後方から走ってくる人間に対して、フォワードパスを投げるのは、地区代表クラスの選手でも数度の練習が必要だった」。そうだ! その通り! 異国の夜につい発声してしまった。

さて花園。どうして、そんなにスロウフォワード取り締まりが好きなのか。
かすかに前へ流れたパスの軌道を見逃さない。それは細部をないがしろにしない審判技術の腕のみせどころなのかもしれなかった。ことに高校の全国大会は、いわば若手審判の「登竜門」にも位置づけられ、すなわち各レフェリーはアセッサーの厳格な評価にさらされがちだ。厳格な評価に応えようと厳格な笛に傾く。もちろん、ときに厳格さは求められる。しかし、それは根底の「自由」を尊重するためにこそ必要なのだ。厳しさは目的ではない。

一般に日本のレフェリー技術は、反則を見逃さぬ点では、さほど国際的にも劣っていない気がする。海外の一流レフェリーが日本国内のゲームを吹いた直後に感想を聞くと、そろって「試合の流れの速さ」を口にする。せわしないのである。そこで次々と発生する事態に対応する癖がついているから、いつしか鍛えられている。

他方、これも全般に、日本のレフェリーの課題はゲームの「管理」にこそある。反則を発掘するのでなく起こさせない。選手と観客を気持ちよくさせる笛や言葉づかい。そうした分野が不得手であり、だから花園では「ゲームをいきいきさせているか」が主たる評価基準であってほしい。

花園でも各レフェリーはコミュニケーションに気を配ろうとしていた。流すべきは流す気風もしだいに芽生えつつある。しかし微妙なパスについ笛を鳴らす文化は、なかなか変わらない。ぜひ大会終了後、すべての「スロウフォワード」をレフェリーの側で科学的に検証してみてほしい。

またハイタックルの内容の峻別も大切だ。
空間と時間の余裕のある状況での「首折り」は、即、赤いカードで構わない。そうあるべきだ。
ただ狭い空間に人間がひしめき、攻撃の手詰まりを打開しようと、球の保持者は極度に上体を低くして急速な方向転換を図る。時間の余裕もなくスピードには乗れない。防御側としたら、ほとんど立ち止まっているのに攻撃側の頭は下がっているので上へ巻きつく(抱きつく)ほかない。それでもハイタックルの反則。これに近いような例がたまに見受けられる。

ラグビーのルールには、硬い言葉を使うなら「上位概念」が存在する。「ハイタックルの禁止」の上には「汚く危ない行為に手を染めない」という大義がある。スロウフォワードも同様だ。結局のところ、ラグビーとは何か、ラグビー精神、文化とは何かの問題なのである。

花園、大学、トップリーグと取材を続けると、以下の構造は、おおむねそのままだ。
ジュニアのレベルではレフェリーの側が選手への尊敬を欠き、シニアへ移ると選手の側がレフェリーへの尊敬を欠く。「尊敬を」のあとに「著しく」を加えてもおかしくはない。

なんべんでも書くけれど、レフェリングは、試合が終われば選手にも観客にもメディアにも批評されるべきだ。聖職視は発展を妨げる。ただし試合中、芝の上では批評されるべきではない。正当なパスを「前」と決めつけられても、黙ってスクラムの準備に取り掛かる。せいぜいが、キャプテンが「もしかしたら目の錯覚では」という意味を、これ以上なく優雅な言葉づかいで伝えるのが限度である。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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