コラム「友情と尊敬」

第144回「仲間とともに駆ける前に」 藤島 大

よきラグビー選手なら必ずこう言う。
「自分の力で動かせないことは気にしない」
 試合中、反則をとられる。たぶん、いや絶対、レフェリーは間違っている。だからといって不平を口にしても状況は変わらない。両手を広げて首をひねるよりも相手の速攻に備えて素早く10m下がるほうが正しい。そのほうが勝つ。

いまのところ新型ウィルスの行方や仕業をラグビー部員は動かせない。自分にもできる対処に撤するのみだ。部活動がなくなる。いつまで休止かわからない。もやもやする。不安を覚えるのも当たり前だ。

こうした事態に襲われると、政治のリーダーまで「ウィルスに打ち勝つ」なんて心構えをつい述べる。しかし、まずは医学や医療の専門家の知見に耳を傾け、精神のあり方はひとまず後回しにして、科学に従って粛々と対策を練るべきだ。

科学は万能ではない。されど科学は「人間は間違う。だから、なるだけたくさんの人間で確かめようではないか」という一点において信用できる。「万能でないのだから、わからないことはわからない」と言い切るところがよい。あやしげな宗教もどきの自称教祖が「諸君、科学は万能なのか」と若者を洗脳しようとしたら言い返そう。「科学こそ、わからないことはわからないと謙虚なのではありませんか。あなたの超能力や預言能力とやらを千の論文と万の実験で検証しましょう」と。

中学でも高校でも高等専門学校でも大学でも、ひとときチームでの活動を許されぬラグビー部員は、ひとりの市民として、新型コロナウィルスに対しては科学に忠実に行動しよう。これがいまできることであり前提だ。

もちろん監督やコーチ、あるいは一定の経験を積んだ選手は以下の事実を知っている。
「勝負は科学では決まらない」
 本当だ。だからラグビー、それも真剣勝負のラグビー、気晴らしでなく努力に努力を重ねる闘争的ラグビーはおもしろいのだ。ひとりずつに科学的に正しい負荷をかけてフィットネスを鍛える。でも、それだけでは勝てない。クラブとして、チームとして、先発の15人として、個の体力の足し算ではなく、集団的に息の上がる猛鍛錬を経ないと「チームという人間」の粘りは身につかない。

信頼。愛情。チームワーク。それらの理屈で割り切れぬ感情を抜いては勝負にならない。もちろん「理屈では割り切れぬ人間の情緒」について科学的にとらえることも可能だろう。そうであっても、こぼれ落ちる領域は残る。

個人的な経験をひとつ。会社をやめて都立国立高校の無給フルタイムのコーチにのめりこんだ。その初期の大試合、前年度の全国大会出場校と春の大会でぶつかった。対戦を控えた週のなかば、バックスのライン練習のおりに「試合の夢を見た。みんながはつらつと走り回っていた」とつぶやくと、確か、7人のうち3人が「俺も見た」と声をそろえた。決戦当日、負けた。いつまでも悔しい。ただ、たまたま観戦していた他校の関係者や大会運営の教員から自然に拍手のわく引き締まった攻守だった。グラウンドには確かに霊気のようなものが漂った。こういう経験をされた指導者や部員はきっとたくさんおられる。

コーチも選手も同じ晩に同じ夢を見た。これも科学の側からの検証はできるのかもしれないが、再現性を欠くという意味では「心のアート」に近い気がする。ラグビーでは科学と非科学は肩を組む。また組んだときだけ体格や経験で追いかけるチームの勝機はコンコンと扉を叩くのだ。

現在、仮にクラブの活動が制限されて、ひとり、自宅の居間や庭や近所の無人の公園で練習しなくてはならないとする。指導者もまたひとりだろう。この環境では「信頼。愛情。チームワーク」の醸成は難しい。非科学の力は「チーム」のみが引き出せるからだ。

だから科学をきわめよう。ひとり腕立て伏せをする。完璧な方法、姿勢をインターネットなどで調べる。実践する。あごの先が床につくまで、ひじを文句なしの角度に折り、イチ、ニッではなくイーチ、ニーィーという間隔で続ける。仮に50回で限界がやってきた。翌日は51回。翌々日は52回。もし、その次の日、どうにも気乗りがしなくて、完璧な方法でなくごまかして回数をかせぐ心の悪魔が接近してきたら、きっぱりやめて、その次の日に回す。なにしろ文句をつける人間はまわりにいない。おのれの意志と良心のみで力をつける。チームで集まる日まで、ずっと続けたら、それだけで、よりよき選手となる資格を得られる。腕立て伏せに限らず他のトレーニングも同じだ。これは情緒ではなく理屈である。

あるいは好敵手の学校、花園予選で突破しなくてはならぬ仮想敵の昨年の対戦映像をパソコンのディスプレイやテレビ画面で凝視する(携帯端末の小さな画面では発想のスケールも縮まる)。チャンスなのにトライはならなかった。どこでしくじったのか。考え抜く。同じ起点、どういうサインプレーを用いれば、どう攻めたらスコアはかなうのか。理屈をきわめて、ノート、できれば方眼紙に記す。前回対戦では破られたディフェンスの場面もしかりだ。

それから方眼紙の攻防の図表をイメージする。目をつむり、立体の絵にして、ボールを動かす。ひとつの奪トライや被トライだけでなく、具体的な対戦校、会場、日付を決めて、もし、あなたが9番なら、そこの視点でゲームを進めていく。ノックオン。スクラム。ここで、どのサインを選択というように。

それから周囲に他者の見当たらぬ狭い空間で、ひとり、いわば「エア」で「その試合」を再現していく。自分はいつものポジションで出場している。1番から15番までの仲間をフルネームで認識、性格や技量も頭に入力、キックオフからの流れを想像して動く。遠くから眺めている人が「あの若者、大丈夫か」と心配するようなら成功だ。これ、けっこう上達の秘訣のような気がする。お試しあれ。

最後に。現況、チームとしての活動に違いがあるはずだ。もちろん各都道府県ごとの事情は異なる。私学にはおのおのの方針も存在する。なにより情勢は流動する。ただ少なくとも、それぞれの地区の花園予選出場校のあいだの「ばらつき」を統括組織の先導でなくすのがフェアではあるまいか。自主練習という名目の全体練習は美しくない。正直者が損をしないラグビー界でありますように。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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