コラム「友情と尊敬」

第134回「厳しくて温かい」 藤島 大

ラグビーの価値は自由にある。やはりそうなのだ。昨今の日本大学アメリカンフットボール部の出来事、女子レスリングにおけるハラスメントの例などを知るにつけ、スポーツの根底の自由な精神について考えさせられる。

指導者と選手の関係でとらえるなら、教える側が自由な精神を尊び、そこにいる部員の尊厳を認めることがすべてである。してはならぬのは「選手の私物化」だ。日大フェニックスの前体制の最大の間違いは、スポーツという限られた時間と空間の内側で「指導」というパワーを与えられた者が、その責務、もっと書くならおそろしさを自覚せず、あたりまえのように「私の物」として扱った思考や行動にある。

ラグビー関係者も胸に手を当てたほうがよい。確かに、あんな非道なタックルを強いることはしないだろう。しかし、たとえば大学の部員の就職に際して強く導いたり、当事者の個の意見を離れて部の事情でコントロールする。高校生の進学先をおよそ指導者の考えで差配する。それは、よかれという善意であっても、選手の側はひとまず感謝を抱いたとしても、実は、深いところでは私物化の端緒である。グラウンドとミーティング室に上意下達はあってよい。しかし、そこを出たら平等な人格なのである。いくらかもどかしくとも、その部員がここに進みたいというのであれば、もちろん理にかなった説得をするのは長く生きた人間の務めではあるのだけれど、根本ではそのまま支援するべきだ。「よし採用されるかベストを尽くしてみろ。そのためにはこういう準備をしておけ」というように。

仮にトップリーグの勧誘担当が、あそこの大学は進路を監督が束ねるのでなく、部員ひとりずつが自分の意思で決めるので手間がかかる、と感じたら、それはよいクラブなのである。

本年3月死去、秋田県立能代工業高校バスケットボール部の元監督、加藤廣志さんは、名著『高さへの挑戦』にこう記している。「子供たちを私物化しない」「型にはめるのが大嫌いだ」「イエスマンというのは絶対に育てなかった」。本稿筆者は、直接、取材したこともある。揺るがぬ戦法、厳格な猛練習で圧倒的な時代を築いた名将は、攻防理論と鍛錬法ははっきり統一するのに、人間ひとりひとりの自由性を尊重した。卒業した変わり者の部員の話をすると楽しそうだった。「異質」や「異色」や「異端」を排除せず、欠かせぬ個性として扱った。

秋田工業高校ラグビー部を率いて、全国大会が8度、国体なら12度の日本一、12年前に76歳で天へ向かった名監督、佐藤忠男さんは、やはり緊張感に満ちて、形容するなら、ピリピリとした練習を課し、そして「個」を大切にした。「サッチュウ先生」と慕われた人は、戦後の混乱期に早稲田大学の工科鉱山地質科に入学、ラグビー部の門を叩く。こちらも名著である『精魂尽して颯爽たり』に新人時代の「人間関係」を記している。

「一言で表すなら、自分自身を大事にする、人間尊重の精神が全面に押し出されていた」「部の公の仕事以外は、上、下級生の区別はない」「言葉遣いにも、こちらが恐縮するほどの思いやりがあった」

激しい練習と精神の自由は両立した。それは秋工ラグビーの雪の下のルーツでもあった。厳しくても冷たくはなかった。

秋田魁新報の佐藤忠男さんの追悼記事にOBの言葉が見つかる。先日、『週刊現代』にも紹介したが、本コラムのありがたい読者にもどうしても伝えたい。

「練習は苦しかったが、先生の指導を受けると温かいものが体に入ってくるような感じがした」

発言したのは「猿田武夫さん(六一)=秋田市=」と記事にある。同姓同名のОBがおられなかったら、かつて敵地でオールブラックス・ジュニアを破ったジャパンの不屈のプロップに違いなかった。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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