コラム「友情と尊敬」

第143回「自分で蹴って自分で拾う」 藤島 大

いま、ここから書き出して、あと51時間と11分、東日本大震災から9年の瞬間がまためぐる。あのときも同じ机で同じメーカーのパソコンを開き、「筆圧」で本体が破損せぬようにつないだキーボードをいつものように右の人差し指だけで叩いていた。スポーツ誌の原稿を書いている途中、揺れた。あまりにもその光景ばかりが思い出されるので、いつかどこかに書いたはずだが、机上に積んだCDの塔が崩れ、ティーンエイジャーのころからジャケットが大好きなので、いちばん上で斜めに立てかけてあったボブ・ディランの『フリーホイーリン』が滑るようにちょうど目の前に落ちる。ひどい地震だ。なのに、そのまま腰も上げずに書き続けた。しばらく、そのとき東北で起きていた事態を想像もできなかった。

いま新型コロナウイルスの拡大をめぐってスポーツやスポーツ観戦は不要不急とされて行ないを制限されている。ラグビー界も例外ではない。

2月27日、首相による「全国の小中高校などの一斉休校要請」の報がいきなり流れて、その2日後の正午前後、沖縄県中頭郡西原町の芝のグラウンドの前を通りかがった。ひとりの少年と指導役の初老の男がサッカーに励んでいた。ゆーっくり、ゆーったり、ゴール前でのボールの受け方、その際の脚と足の運びを反復している。「いいトレーニングだなあ」と遠景に感心した。ゆーっくり、ゆーったり、でも、しつこいところがよい。感動した。

部活動や競技スクールの集まりを許されず、さみしさやむなしさはあるに違いないが、うまくなろうと思えば「ひとり」でかくも実のある時間を過ごせる。ラグビーも「ひとりで練習する者」が上達する。コーチの求めるシステムに適応するのもラグビーだ。でもシステムを構成する個を鍛えてスキルをつかまえるのはもっとラグビーである。ラグビーは「ひとり」ではできない。大いなる魅力だ。そして、ラグビーは「ひとり」では絶対にできないからこそ「ひとり」の時間の有無が成否を分ける。ひとりぼっちがチームを勝たせるのである。

しばらく、夏にも近い日差しの沖縄のグラウンドで、老人(本当はもっと若いかもしれないが遠くでサングラスを装着しているのでよくわからない)と少年のスキル獲得の積み重ねに見とれていた。すると、他に人間の見当たらぬグラウンドに小学生と思われる男子が出現した。ひとり、やはり丸いボールを蹴り始めた。現象としては孤独なサッカー。なぜか、それに引き寄せられて、じっと目を凝らすと、いま書いた「ひとりぼっちが笑う」という自説を確かめられた。

その男子は思い切りボールを蹴り上げる。そうしたいからだ。美しいグラウンドは奇妙なほど広々としている。おそらく2日前の「全国の一斉休校要請」も無関係ではあるまい。さらに、その前の「自粛」の影響は間違いなく、老人と少年を除けば、さえぎる存在は見当たらない。だから遠くへ、遠くへ蹴る。わかる。気持ちが。

遠くへ蹴っても、どこにもぶつからない。クラブやスクールの活動ではないので仲間はいない。遠くへ転がるボールはずっと向こうまで転がる。少年はどうする。走る。なかなか筋のよさそうな加速と持久性を発揮、ずいぶんな距離を駆けては拾って、またそちら側から元いたほうへ大きく蹴る。そして、また全力で走るのだった。じゃまされず「蹴る」というスキルを身につけ、じゃまされぬからこそ永久運動のように走ってフィットネスを獲得している。なにより青空のもとで緑のスペースをほぼ独占して好きなことに打ち込む充実がある。ウイルス感染のリスクが喜びであるはずはない。そこにサッカーの友がいないのも喜びではない。しかし、ひとりぼっちでボールを蹴っては拾いに走るのは悲しみではなかった。

9年前。宮城県石巻工業高校にも津波は達した。ラグビーの部室はヘドロで埋まる。自宅を流された部員は「家が海になりました」と気丈にふるまった。かつて早稲田大学とリコーのタフなプロップ、当時の尾形勉監督がこう語るのを聞いた。

「部活動を再開して部員たちが感じたのは、大きなことより、ああ自分はラグビーが大好きなんだ、ということでした。私も再確認できた」

ラグビーの森に生きていれば、ひとりの時間は必ず終わる。石巻工業高校の部員は津波から約1カ月半後に集まった。パスの交換。ひとつだけの楕円球はひとりの手を離れ、ひとりの手から手へとどんどんつながれた。ひとりを楽しめ、とは書きたくない。ただ、こうは言い切れる。ひとりでないからひとりの練習は悪くないぞ。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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