コラム「友情と尊敬」

第162回「追悼・蒲原忠正」 藤島 大

52年前。若き日はウェールズ代表キャップ14のFBにしてブリテイッシュ&アイリッシュ・ライオンズの副将であった英国サンデー・タイムズ紙の記者が、ジャパンのある男を称賛した。

「彼は全く素晴らしい選手で、世界のどのスタンドオフにも決してひけをとらないばかりか、諸外国は喜んで彼を代表に選ぶだろう」

ラグビー報道の大家であったヴィヴィアン・ジェンキンズは、1971年9月のイングランドの日本ツアーをカバー、帰国後にそう書いた(大西鐵之祐著、『わがラグビー挑戦の半世紀』に訳文掲載』)。

「彼」とは藤本忠正。のちの姓は蒲原。ラグビーの母国に19ー27、3ー6と迫ったジャパンの背番号10である。先の8月9日、激しく、しかし、どこか静かでもあった人生を終えた。享年79。まさにこの国の偉大なるラグビー人であった。

あのイングランド戦前の寄せ書きの写真を見たことがある。

「肩砕けてもタックル 藤本忠正」

攻撃の中枢を司るポジションの第一人者はタックルの虫で鬼で神でもあった。死の3日前の午前、長きにわたって付き合いのあるスズキスポーツの鈴木次男顧問に病床から電話をかけた。前日のジャパンのフィジー戦について言った。

「あんなタックルじゃダメだ」

すっかり見かけなくなった砂の上に吊るす人の形のダミーを用いた練習を導入すべきだ。そうも述べた。最後は「じゃあな」。いつもの口調だった。

極度に前へ出る日本式「シャローディフェンス」の文句なしの具現者である。いつか本人が明かした。「最初の15mはジャパンでいちばん速かった。50mはFWにも抜かれた」。記録に残るサイズは168㎝、68㎏。国内でも平凡な体格なのに前傾姿勢からの初速の鋭さと強靭な足腰が攻守の「接近」を可能にした。

対イングランド。花園での初戦の前半7分過ぎ、映像で確かめたら、こんな場面がある。敵陣の相手投入スクラム。赤白に桜の藤本が白に薔薇のディック・カウマンをぶっ倒す。SОがSОに突き刺さった。

現在と異なり防御ラインの5m後退ルールはない。それでもBBC放送のコメンテイターとして活躍したSHナイジェル・スターマースミスのスピンパスは遠くへ飛んでいる。なのにキャッチングと同時にヒット。普通の感覚ではありえない。高速魚雷のようで、ただし一直線の棒ではなく、かすかに、ほんのわずか流線の気配がある。この出足や間合いの詰め方は時代を超える。

古いファンは「藤本がラインアウトから相手の10番のキックをチャージした」と記憶している。1972年にオーストラリア・コルツ(U23)代表が来日。ジャパンは24ー22、17ー17の1勝1分けだった。「そのどちらかの試合」。録画を見つけられず確認はできなかった。ただイングランド戦の一撃を知れば不思議ではない。
 
アタックでは防御の波にさらわれず、あくまでも主導権を握って、パスやランでタイミングを創造した。盟友の名CTB横井章とのコンビネーションは無双だった。ことに両者のループは格別、ともに前へ仕掛け、体をひねらずに前を向いたまま球をつなぐ。通称「くるり」はサインプレーというより、もっと自然な阿吽の呼吸だった。わかっていても止められない。現在のプロのコーチがいかなる防御システムを構築しようと、きっと抜ける。

ジェンキンズ記者は本国へ送った記事でジャパンのアタックをこう表現している。「パスのタイミングだけで相手をはずしたり、信じられない位置から逆襲したり、常に相手ゴールラインへの最短距離をとって攻撃した」。藤本忠正こそがタックルという労働をいとわぬ指揮者なのだった。

天理高校より早稲田大学へ進み、1966年度の学生日本一のキャプテン。と、経歴を紹介して、次の所属チームはない。卒業後、長く天理教校附属高校(現在は閉校)の教員を務めた。

忘れてはならない快挙がある。1985年度の花園出場。蒲原監督の率いるラグビー部は奈良県の予選を突破した。ということは天理高校を退けたのである。正確には決勝で6ー6の引き分け。抽選で出場権を得た。はっきりと「事件」だ。資料を引くとFWの平均体重は「73㎏」。初心者ばかりのチーム編成だった。体格も経験もなにもかも小の側が大に伍した。

「天理、ぼう然!」。ラグビーマガジンの見出しである。

しばらくしてテレビ番組で、あれはおそらく予選の試合のダイジェストが放映された。たまたま目にして、たちまち驚いた。小柄な15人がきびきびと走り回り、機械仕掛けのように正確に楕円球がつながる。そして忘れてはならぬ「肩砕けてもタックル」。防御ラインはためらわず空間を埋めた。

前出の鈴木次男はこのころグラウンドを訪ねて、つい口に出してしまった。「1軍はどこですか」。蒲原監督は笑った。「これが1軍だよ」。そのくらい小さくて細かった。3回戦まで勝ち上がった花園では重量スクラムの押しをこらえるプロップの太ももがプルプル震えていた。

蒲原忠正は教団の要職に就き、指導の現場を離れた。あのまま続けたら新しい日本のラグビーを創造したのではあるまいか。知られざる名チーム、天理教校附属高校。独自性、芯を貫くスピリット、際立つ指導力は天理高校とのドローに凝縮していた。
 
それより前、1981年かその前後の菅平高原。蒲原忠正は早稲田大学の夏合宿で数日の臨時コーチを務めた。筆者は当時の部員で「名選手が何を教えてくれるのか」と漠然と思った。初日。バックスを集めるといきなり授けた。「敵陣か中盤でのいちばん最初の相手ボールのスクラムではライン全体でオフサイド気味に飛び出して脅かせ」。スレスレをPとされても当時はタッチの外に蹴り出した側の投入にならない。

「SOもレイトタックルをおそれず前へ出ろ。少しでも体を当てて帰ってこい」。すると次のディフェンスから「出ると見せて逃げのパスをさせる」など先手を打てる。さらにこんなことも付け加えた。「タックルしたら倒した相手の肩を手で押さえて先に起き上がれ」。強国が代表に選ぶと称えられた名手のそこが地金なのだった。

ことしの4月。福岡でラグビーのファンの集うイベントに呼んでもらった。その場で「ジャパンのオールタイムベストの10番は松尾雄治さんでは」という内容を話した。同時代に全盛を目撃したので印象は濃い。本当に上手だった。終了後、ある分野では高名な年配のラグビー愛好家がこちらへ寄ってきて告げた。

「わたしのナンバーワンは藤本です」

穏やかで控えめな声が忘れられない。(敬称略)

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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