コラム「友情と尊敬」

第3回「大切なジャパンの死」 藤島 大

 駆け抜けた。そう書きたい。
 でも実感は違った。消えてしまったのだ。
 9月26日、午後9時。パティリアイ・ツイドラキが死んだ。33歳。現地フィジーからの情報によれば腎臓疾患に悩まされていた。

 WTBとしてフィジー代表で6試合。そして日本代表では19キャップ。
 愛称は「パット」。しなやかで、俊敏で、どんな姿勢からも正確なパスを投げ、いつでもスマイルを浮かべていた。
 1969年、7月29日、フィジーのナンディに生まれた。地元の学校を出て、ニュージーランド(NZ)のオタゴ大学に学び、名門として知られる同クラブでプレーに励んだ。
 94年、フィジー代表のNZ/日本遠征に選ばれ、ジャパンとの2テストを戦う。ホームでのウェールズ、西サモア(当時)戦にも出場した。

 翌年、トヨタ自動車の初の外国人プレーヤーとして来日。たちまち魅惑のフィニッシャーの地位を確実とした。97年の香港戦で日本代表初キャップを獲得。99年のワールドカップ(W杯)では、6人の外国人選手のひとりとして、7万2千大観衆の前で地元ウェールズからトライを奪うなど奮闘した。

 トヨタ自動車とは昨年度限りで契約を終えた。すぐに帰国。自動車関連ビジネスを起業したばかりだった。

 パットは愛された。「助っ人」ではなく仲間だった。「はい。元気」。試合後、どんなに疲れていても、バッグを床に置き、立ち止まって、親しい記者の問いかけに応えた。 
 W杯の試合後の記者会見、英語で冷静にコメントする姿には、ふだんの陽気なふるまいとは別種の威厳と知性があった。英語の堪能なジャーナリストが「ツイドラキの話し方にはとてもインテリジェンスがある」と感想を口にした。

 昨年、早稲田大学からトヨタに入った山崎弘樹(SO、FB、本年のアジア大会日本代表を故障で辞退)は言う。
「練習の態度が見事でした。いつでも声を出し、若い選手の手本を示す。ベテランなのにフィットネスでもベストを尽くした」
 パットは、高校卒業後に入社した若手を、とりわけ、かわいがった。つきっきりで指導して、適切なアドバイスを根気よく続ける。それはプロ意識というより、根っからの優しさに違いなかった。 

 W杯翌年、豪勢な外国勢がこぞってジャパンを去った。日本の選手の辞退も続く。およそ国代表とは信じられぬ惨憺たる状況だった。
 しかし、パテイリアイ・ツイドラキは桜のジャージィを脱がなかった。
 2000年11月11日、ダブリンのランズダウンロードでのアイルランド戦、
 あの9-78の惨劇にあって、フィジー生まれのWTBだけは堂々と対抗できた。ほとんど、ただひとり、本物のインターナショナルの矜持を示した。苦く切なく誇り高いハイライトだった。

 「日本人より日本人らしい」。そんな想像力に欠ける言い回しは絶対に正しくない。
 ツイドラキはフィジーを愛していた。胸に椰子の木の刺繍、フィジー代表を心より愛していた。99年6月。ジャパンの一員として母国の芝に立った。チャーチル・パークに流れたフィジー国歌を、あの優しげな笑顔の好漢は、どう聴いたのだろうか。わずかに苦く切なく、大変に誇らしい瞬間。きっと、そうなのだろう。現地の記録には「彼は涙していた」とある。

 かの美しい島では、才気に満ちて、意欲を携える青年は、どうしても「外」へ出る。出なくてはならない。オタゴ、豊田と続いた短くはない道。おそらくは堅実に貯え、さあ、異国の寂しさと喜びに培った経験を事業にいかすところだった。

 「いけいけトヨタ」。いつもグリーンの旗を振って、美しいハーモニーで声援を送った妻、4人の子供が残された。

 感傷は振り払おう。パティリアイ・ツイドラキは、ただ、一瞬も集中を切らさず、球を抱くや1ミリでも前へ出て、必要とあらばラックをめくりあげた。
 我々の大切なジャパンだった。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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