コラム「友情と尊敬」

第82回「文武両道」 藤島 大

文武両道。正しく、美しいかもしれず、しかし、危険な言葉だ。へたをすると、どっちつかずに陥る。二兎を追うもの…のたとえもある。

高校や大学という「学校」のラグビー部を指導していると、この「文武両道」をアリバイというか、言い訳に用いる誘惑にかられる。

「私たちは勉強ができるのだからラグビーで負けても仕方がない」

そんな本音を、うまく取り繕った言い回し、あるいは、もっと露骨な表現で言い訳にする。

しかし、いったん、「勉強ができるから=入学が難しいから=素質と環境に劣るから負けてもよい」という温室に入ってしまえば、もう厳冬や突風や豪雨の外気へ飛び出すことはできない。つまり本物の闘争的スポーツの醍醐味を味わえない、あなたが指導者なら教え子を頂上どころか頂上へ向かう道にすら立たすことはできない。

選手のスカウトなど皆無、きたるべき難関上級学校への受験も控えている。そんな条件のいわゆる「進学校」の部員であっても、地域の強豪に負けたら悔し泣きをしなくてはならない。「ああ、これでラグビー部の仲間との最後の試合が終わった」という涙は本物ではない。あくまでも「負けたから悔しい。悔しくて虚しくて泣けてくる」。そこまでの境地へ連れて行く。それが指導者の務めだと思う。

簡単に「君たちは文武両道をめざしたから偉い」と思考を停止させてはならない。ただラグビーに負けただけなのだ。勉強なんか関係ない。ここに勝負の価値はある。

その上で、春到来、やはり新しい環境や学年でラグビーを始める若者には「文武両道」を求めたい。この場合の「文」とは、もちろん勉学もそうだが、広く「教養」としておきたい。読書。映画。音楽。社会問題への意識。進学と結びつかぬ貴重な「文」だってあるのだ。受験勉強にたけていることをもってのみ「文」とするのはいかにも浅い。中学からそのまま師匠に弟子入りする落語家も、結局、将来の成功を左右するのは「教養」である。

つまり述べたいのは以下の一言だ。

「ラグビーだけでは危険なり」

周囲の用意してくれたラグビーの道のみを走ると、長い人生を濃密に愉快に生きられない危険をともなう。そんな意味のつもりである。

ここで、もういっぺん、冒頭の一節に戻るが、文武両道を敗北の言い訳にしてはならない。ラグビーに傾注する時は傾注する。あまり厳格に「文武」を並行させると、どちらも負ける。では、どうするか。

ここは「時間の射程」を意識するべきだ。

あえてわかりやすい例を。

東京大学ラグビー部員は、いささか極度なほど、グラウンドとウエイト練習場に入り浸って構わないと思う。なぜか。東大に進むまでは「ラグビーだけ」ではなかったはずだからだ。「時間の射程」を考えると、この4年間くらいラグビーに力を傾けても、アカデミズムでもビジネスでもあとから追いつける。もし強豪校に負けて悔し泣きするところまでの努力を積めていたら、まして勝って涙できたなら、追いついたあとに引き離せる。

反対に、幼くしてラグビーの才能を見込まれ、中学ー高校とそちらに没頭していたのであれば、たとえば誘われて進んだ大学入学後は、意識して授業に集中し、さらにはサブカルチャーというのか映画などの「街の教養」に接近したほうがよいだろう。ラグビーと無縁の友人や師匠を得るのも、きっと、あとになって人生の充足を呼ぶ。

世界チャンピオンにしてノーベル賞受賞というほどの「文武両道」は確かに険しいだろう。しかし「ラグビーだけではない」という森ならばうんと広い。必要なら日本一をめざしてグラウンドに青春をかける。それでも、あとから仕事と人生の選択肢を得られる。それくらいの「文」を早々にあきらめるのはもったいない。

以下、一昨年暮れ、韓国の新聞『朝鮮日報』の日本語版サイトで見つけた「部活と学業」という記事から。いつか他のコラムにも引いたのだが、なかなか日本のスポーツ人はここまで正直に語ってくれないので参考になる。前提として、韓国では1973年にスポーツ特待生が制度化され、競技成績のみで進学のコースは決まる。結果、小学高学年から大学までスポーツと勉学の二極化が定着している。

サッカーでおなじみのチェ・ヨンス(崔竜洙)氏は、名門とされる延世大学出身であるのにこう明かす(要旨)。

「中学時代にサッカーを始めてからテストのたびにカンニングばかりしていた。運動部に所属していれば許されると思っていた。海外サッカーの理論を学ぶには英語力が求められる。いまとなって苦労している。娘にはスポーツをさせたくない」

キム・ジュソンというバスケットの一流選手は「韓国ではスポーツ選手はスポーツばかり、一般学生には座って勉強ばかりさせている」と発言している。

スポーツ特待制度導入より前の世代、野球解説者のホ・グヨン氏は言った。

「わたしの学生時代は一般の試験を受けて高校に入り、スポーツと勉強を両立させていた。当時の友人たちは社会で活躍し、いろいろ助けてくれる。いまはスポーツが人生の選択肢を奪っている」

近い将来、日本のラグビー界がこの方向に流れぬよう、高校や中学の部員には「書を捨てず球を追え」と伝えておきたい。まずは新聞の外報面を読んでください。いまの自分の暮らしとは遠く離れた地域や国の貧しい人々の出来事を想像してみる。そのことが、いつか強いタックルに結びつくはずです。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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