コラム「友情と尊敬」

第161回「あの午後の9番の死」 藤島 大

突然の死が遠い国に暮らすこちらに迫ってくる。ラグビー関係者だから?元代表選手だから?そうではない。

その人はかつてスコットランドのハーフで1989年5月28日に東京の秩父宮ラグビー場の芝に立ち、胸に桜の日本代表に24ー28で負けた。消しても消えぬ記憶のまぎれもない登場人物である。当日のスタジアムにいた者として面識はないのに訃報を近くに感じた。

あの忘れがたき午後、濃紺の9番をまとい負けん気をたたえていたグレイグ・ハンター・オリバーは先の6月2日、南アフリカ・ケープタウンでのパラグライダー事故で海に堕ち、天へ向かった。58歳だった。U20チャンピオンシップのアイルランド代表に選ばれた息子ジャックの応援のために同地を訪れていた。

スコットランド南部のクラブ、ホーウィックの50人目の国際選手だった。1987年の第1回ワールドカップの対ジンバブエでデビュー。4年後の第2回大会、同じ相手との対戦が代表の最後だった。

キャップは3。ささやかではある。47キャップのロイ・レイドロー(浦安のグレイグ・レイドローの伯父)、51キャップのギャリー・アームストロングのふたりの名手にはさまれた。もっとも88年から91年までの日本やニュージーランドへの計4度の海外ツアーでは全24戦のうちの15戦に出場している。負傷を除く交替の認められぬ時代、おもにキャップ対象でない連戦に力を発揮した。

秩父宮のジャパン戦、オリバーは途中で、不調の正キッカー、イアン・グラスゴーに代わって役を担い、5PGとひとつのGを決めた。トライ数は1対5なのに「ほぼ独力で試合に均衡をもたらした」(スコットランド協会公式ページ)。映像を見返すと、柔らかく優しいパスも一級だ。

オリバーにまつわるもうひとつの思い出がある。1991年のワールドカップの公式プログラムに、その略歴が記されており、職業について「ザ・サザン・リポーター紙のスポーツ担当サブ・エディター」とあった。いわゆるデスクのような職責だろうか。

日本のスポーツ紙から派遣された30歳の自分と同じような勤めの27歳のスコットランド人は、なんと現役のワールドカップ代表である。いくらか羨ましいような感情に襲われた。たまには本人が本人のゲームを書いたりするのだろうか。そんな想像もした。

念のため、今回の悲劇を伝えるザ・サザン・リポーターを調べたら、やはり同紙の「サブ・エディターであった」と紹介されていた。いまさらながら本当だったのだ。

オリバーは現役を退くと指導や普及の道を歩んだ。94年から13年間はスコットランド協会のアカデミー・マネジャー、2000年度と21年度はホーウィックを率いてチャンピオンとなった。07年、妻の故郷のアイルランド・リムリックへ移り住み、11年~14年までアイルランドU20代表のアシスタント・コーチを続けた。長くマンスターのエリート・プログラム・オフィサーの職にあった。
  
ジャパン、スコットランドを破る。34年前の本稿筆者は快挙を秩父宮ラグビー場でなんとか記事にまとめると、隣の神宮球場まで走って、そこにすえつけてあった自社のファクシミリで送った。あんなに晴れていたのに、にわかに雨が落ちてきた。あれはただの仕事ではなく体験だった。だからグレイグ・オリバーもわが人生の一部を構成している。

スコットランドの往時のスピードスター、トニー・ステンジャーが不慮の死を遂げた仲間をこう語った。

「激しい競争者だった。自分の潜在力のすべてを絞り出そうとしていた」(スコットランド協会公式ページ)

ジャパンが前半を20ー6でリード。暑さもあってスコットランドはしだいに勢いをなくす。しかし後半、身長172㎝の背番号9が、あんなに疲労のたまるポジションなのに、左脚のキックをひたひたとHポールの真ん中に蹴り入れた。テストマッチではもっぱら控えの男は、伝統国の誇りをまさに雫になるまで絞り出していた。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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