コラム「友情と尊敬」

第139回「包む強さ」 藤島 大

ラグビーを始めて1カ月ちょっとの部員。教え始めて間もない新人コーチ。春の大会を終えて活動に区切りをつけた3年生。それぞれの春もおしまいへ近づく。

あらためて楕円球とかかわる善き人たちに向けて述べたい。ラグビーとは寛容の競技なのだと。少し前、青森の弘前で強く思った。4月27日。まだ寒かった。黄金よりも美しい弘前城の桜は、だが、曇天や冷気にも格別だった。

当日、ラグビーマガジン誌や関連のWEB「ラグビーリパブリック」でおなじみのフォトグラファー、松本かおりさんの写真展「LOVE、RUGBY!」が催された。翌28日には「弘前サクラオーバルズ・ラグビー映画祭」も開かれる。女子ラグビーを支援する青南商事、NPO法人の弘前サクラオーバルズの主催だった。

松本さんの作品は包む。有名選手のみならず無名、市井の人々を澄んだ視線がくるむような感じがする。弘前実業高校野球部出身、ジャパンにおけるオールタイムベストかもしれぬロック、かの小笠原博さんの近影の肖像フォトが笑っている。日本ラグビー史きってのハードマンのスマイルとは、すなわちスクープだ。五所川原農林高校ラグビー部の面々が雪上に並んだショットに泣けてくる。少年たちを知らない。なのにラグビーに励んだ経験のある者ならどうにも懐かしい「記憶」は漂う。どの写真も真ん中をラグビーの普遍が貫いている。この「普遍」は後述する映画にも浮かび上がる。

写真展のゲストには、サントリーサンゴリアスのロック、真壁伸弥さんが登場、繊細なほどの気配り、それでいて世界のどこのだれにも媚びないだろう気概や矜持を感じさせるトークで老若男女を楽しませた。うまく書けないがサントリーというクラブの強さをわかるような気がした。南アフリカ戦秘話、おもしろかった。

一夜明けて、映画祭では、クリント・イーストウッド監督作品、1995年のワールドカップにおける南アフリカ代表スプリングボクスとネルソン・マンデラ大統領を描く『インビクタス』。そして大阪朝鮮高級学校ラグビー部を追った傑作ドキュメンタリー、『60万回のトライ』が無料で上映された。後者は青森県初公開だった。

外で背伸びするだけで幸福になる桜日和の青空。百貨店8階の会場の暗がりに足を運ぶ人はいるだろうか。あふれるほどとはいかなかったが、いた。弘前大学の現役フッカー、地元の公務員、FMラジオ局員、青森市内から訪れた若き歯医者さんなどなど。そこにいたひとりとして、自信をもって「ここにいてよかったね」と言い切れる。上映後、7人制女子日本代表のキャプテン、中村知春さんの実感のこもった話もまたよかった。

時代も背景も異なるが、ふたつのラグビー映画の底に共通の主題が流れた。それは「寛容」。いや「寛容の強さ」である。ネルソン・マンデラは、公然の差別である人種隔離政策「アパルトヘイト」に抵抗、27年投獄され、うち18年はケープタウン沖のロベン島の劣悪な房で過ごした。

釈放。アパルトヘイト撤廃。全人種参加の選挙。94年就任のマンデラ大統領は、白人支配層のパワーの象徴でもあったスプリングボクスの名称、ジャージィの色、エンブレムを残すことを認めた。黒人同志の不評は承知、「白人への報復をしない」というメッセージであった。ワールドカップ決勝。大統領はスプリングボクスの6番のジャージィをまとって現れた。丸々と肥えた白人男性が「ネルソン、ネルソン」と繰り返し叫ぶ姿を本コラム筆者も現場で見た。

44歳からの27年間、獄につながれた。ネルソン・マンデラは、なのに、白人を赦した。その経済を接収しなかった。結果、南アフリカは、いまにいたる問題を抱えながらも、新生国家として成り立った。白人への寛容が、報復した場合よりも「強い」社会を築いた。

『60万回のトライ』も同じ主題を提示する。2010年度、大阪朝鮮高ラグビー部は、花園でベスト4進出を果たした。筋書紹介ふうに書くなら、その躍進を追ったドキュメンタリーなのだが、あれからそれなりの歳月を経ても、個人的に繰り返し観賞しても、色褪せぬ感動がある。普遍の青春、普遍の人間像が、ラグビーという枠組を得て、さらにくっきりと輪郭を濃くするからだ。昨年暮れには、ニュージーランドのオークランド大学の「コリアン研究センター」などに作品が招かれた。世界に散らばる研究者たちは「日本での上映中と同じところで笑って泣いた」(朴敦史共同監督)そうだ。

朝鮮高と聞くや「異質」や「特異」というイメージを抱く者は少なくないだろう。偏りのある教育にがんじがらめとなっている、と。しかし、実は、韓国籍や日本籍の少年少女も学び、タンスの角に足をぶつければ「いたっ」と日本語で叫ぶ。まさに『60万回のトライ』に描かれた喜怒哀楽、どこにでもある人間らしさがそこに横たわる。

在日コリアンの生を享けることは、日本人に生まれるのと同じように自分では選べない。問われるのはマンデラが手放さなかった想像力だ。かつての南アフリカの白人体制はひどいことをした。でも、もし自分が日本ではなく、南アフリカの白人の子としてあの時代のあの社会で育ったら、人種隔離政策即時撤廃、マンデラ釈放、と猛然と活動できただろうか。たとえば好きなラグビーに打ち込むために沈黙を守ったのではあるまいか。もちろん、白人の為政者が、みずからが黒人家庭に誕生、アパルトヘイトの南アフリカで暮らしたら、どんな気持ちなのかを真剣に思い描く態度こそは求められた。たぶん、実態も、さらには自身の良心のカケラすら、見ないようにしていた。

朝鮮高のラグビー部が花園など公式戦に参加できるようになったのは1994年である。門を開くのは遅かったが、閉じたままなら、日本のラグビーはいまより弱かった。大阪の高校にいっそうの切磋琢磨はもたらされ、大学、トップリーグの主力を担う「大阪朝高出身者」は途切れない。在日コリアンのラグビー人は過去に間違いをおかしたわけではない。だから「寛容の対象」という言葉は正確ではない。ただ排除や排斥は強そうで本当は弱い。ここは確かである。

と、桜の街の2日間に考えさせてくれた「弘前サクラオーバルズ」に感謝したい。昨年8月、特定非営利活動法人設立認証。スクールから女子強化チームまでラグビーを楽しむための「志」と「環境」がそこにある。老若男女が孤立せず、おのおのの出番を確かめる場所となるだろう。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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