コラム「友情と尊敬」

第55回「少し早い中間総括」 藤島 大

試合後の選手の言葉が明晰になった。チームに芯が通ったからだ。指導者を信頼できているからでもあるーー。
これ、前回の書き出しだ。この印象は変わらない。

ジョン・カーワンの功績は、その存在の大きさと明確な方針により、選手たちが「ひとつのチームになろう」と燃えたことにある。「燃えさせた」でもよい。

しかし、クラシック・オールブラックス戦、フィジー戦を終えた時点で、やはり課題の根の深さは、なかなか簡単に解決できないと分かった。チームになってきたからこそ「できないこと」はくっきりと浮かぶ。「際立つ」という表現は「おもによいことに用いる」のだろうけれど、つい、そう書きたくなる。細部の拙さ、ナイーブさが反対の意味で際立つのだ。

「日本独自のラグビー」の到達像、具体的な絵図に、さまざまな意味でギャップは残る。

JK(ジョン・カーワン)ヘッドコーチ就任までの数年間は、到達像どころか、到達する意志も強化体制の側になかったので、それに比べれば大いなる前進だ。ただしJKの描く「日本のラグビー」と、古くから日本のラグビーを見てきたファンや指導者の意識におけるそれは違う。現役の選手たちの大半は、国内で、ことさらに「日本のラグビー=小の側のラグビー」を考えたり実践する立場になかったので、なかなかイメージするのは簡単ではない。

もちろん違って当然だ。ただ頼りになる大物監督の発する「日本のラグビー」という一言の前に、イメージのギャップがなんとなく「ないこと」になってしまうとこわい。

たとえばキックの応酬がある。このあたりに蹴ったら、ここがチャンス、あるいは、ここがピンチという感覚は、オールブラックスの選手には肉体化されている。しかしジャパンではキメ細かく教え込み、反復練習するべきだ。ここには危ないから蹴ってはならない。もし蹴ってしまったら、誰と誰はここに走れ、ここを埋めろ…というような。いまも指示は出ているだろうが、より緻密に、しつこく仕込んで、ちょうどよい。

たとえば「早く速く前へ出るディフェンス」。ジャパンの「はやさ」の理想はフィジー戦での現状でなく、国内において極度に実行しているチームと同じレベルあるべきだ。一例を挙げるなら、この前の花園の高鍋高校のような。待ち構えずに先手をとって突き刺さる。それでは精神論のようにも聞こえるが、実際、ワラビーズやウェールズに世界標準における「最速」で対抗しても結局のところ負ける。短い距離でのスタートにたけ、小さいスペースで素早く動く資質のある日本ラグビーの規準での最速をめざさなくてはならない。

強豪国からトップリーグに加わったコーチや選手は、必ず、「日本のラグビーはあわただしすぎる」と指摘する。ほめる場合は「素早くボールが動くので驚いた」。世界標準としては、そうなのだ。しかしトップリーグの「はやさ」は、ジャパンの理想像には遠く届いていない。そう、とらえたほうが適切である。

JKジャパンは、そもそも時間切れのところから始動して、猛然と失われた時間を追いかけている。全体の方向は間違っていない。このコラムの執筆時点では、ジャパンの現在地を測るのに最適なトンガ戦も終わっておらず、心からゲームごとの成長を祈る気分だ。

どうしたって時間との戦いは厳しい。まずは実践→反省→修正のサイクルの密度を濃くする。そして選手のセレクション方針を、多少は見直すことかもしれない。誰がいちばんうまいかは重要ではない。ワールドカップの標的の試合に勝つための方針に誰が合致するかだ。議論を呼ぶ「背番号10」。もし時間不足がいよいよ現実となれば、総合力には目をつむっても「何事かをなす」人間をすえたい。具体的には、ゴール前で、ぐちゃぐちゃでもよいからトライを奪えるスタンドオフを。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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