コラム「友情と尊敬」

第128回「大敗にして…。」 藤島 大

強い。弱い。それとは別に「いいチーム」がある。花園、開幕。初日の第1グラウンドの初戦、香川県代表の高松北高校が、敗北にも確かな光を放った。千葉の流通経済大学付属柏高校とぶつかり「0―95」のスコアで散った。そこを切り取れば「弱い」。そうかもしれない。しかし、1年生が先発に6人、背番号20までしか揃わないリザーブは全員という布陣で、よく前に出て、よく倒し、ボールを手にすれば練習の成果のまま集団で攻めた。あわやトライの場面もあった。

新入生の入学と入部までの部員数は9人。6月、なんとか15人で臨んでも最初のうちは「香川県内でビリ」だった。11月13日の花園予選決勝、春に5―36で敗れた坂出工業高校に29―26としぶとく競り勝ち、聖地のメイン競技場の芝を踏めた。

流経大柏戦の前のウォームアップ。隣のスペースで吠える相手と比べると、はるかに小柄な部員たちは淡々とタックルと前へ出るディフェンスを繰り返していた。「男の顔は履歴書」と書きたくなる風貌、50歳の髙木智監督は、達観したような様子で黙って見つめている。J SPORTSの解説の取材で声をかけるのがためらわれ、いま思えば失礼なのだが、後方で、ひとり「これは厳しいなあ」とつぶやいていた。

試合開始。高松北、悪くない。低く構え、ミスを誘い、それを繰り返し、なお、つながれてインゴールを明け渡しながら、ソフトな印象は与えなかった。トライをされても誰かがしつこく追いかけた。3人だけの3年生、フッカー植村太一の前進と低いタックル、ロック長町如基のボールへの執着と厳しいタックル、背番号15のキャプテン、野崎健太のランと深いタックルは、実力校の流経大柏に通用していた。少数ゆえの自覚と誇りが浮かんだ。

髙木監督は、大阪体育大学ラグビー部出身、ヘラクレス軍団と呼ばれた筋骨隆々の集団にあって、全国大学選手権ベスト4入りのチームでフランカーのリザーブであった。当時、豪放磊落にして明朗で知られたチームの一員らしく、敗戦のコメントも取材陣の笑いを誘った。

「エクセレントですわ。あいつら本当にすごい。ホンマに。1年軍団があんなに体の大きな相手にぶち当たってゆくんですから。トライのチャンスもあった。ディフェンス頑張ればチャンスはくるんですね」

0―95を「エクセレント」と評するのは、いかがなものか、そんな意見もわかる。負けたら、まして大負けなら、大いに悔しがらなくては。他方、現場の実感もある。部員不足で新人戦には不参加だった。「1年軍団」がじわじわと力をつけた。花園の1回戦登場としては最も実力を有するチームのひとつ、先発12人が3年生の強豪に向こうに、たちまち蹴散らされるのでなく、前へ前へとくらいついてた。「ラグビー始めて数カ月」の教え子を称える気持ちにウソはない。

「こう考えるようにしたんです」。髙木監督が言った。落語の世界の符丁を用いれば「つばなれしない(9つまでに収まる)」部員数についてである。「9人しかいないではなく、9人もいるんだと。あと何人か集めたら試合できるやんけ」。何人か集まり、この場所へたどり着いた。

チームのモットーは「Believe」だ。「ホンマ、ビリーブで、小さいなりに戦いました」。そこでさらにジョーク。「ちなみに(12番で出場の1年生の)息子はビリーブの綴り、書けませんでした。ふざけるなと」。本当は綴れると見た。しんみりするはずの敗者側ロッカー室の前が、またカラカラと明るくなった。ただし監督の目はちょっぴり赤かった。

ある大学の指導者が高松北の試合直前の様子に目をやりながら話した。「ツメ跡を残せるか」。もういっぺん書く。0―95。それは断じて深い跡ではない。でもツルンと撫でただけでもなかった。浅いけれどツメの先は分厚い肌に引っかかった。血は出なくても、わずかに、にじんだ。大敗は勝利から遠く、惨敗からはもっと遠かった。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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