コラム「友情と尊敬」

第146回「刺すな。書け。」 藤島 大

つまようじを他者の頭に刺さない。バーベキューの火力で熱くなったヘラを他者の腕に押し当てない。飲酒をだれであれ他者に強要しない。「お前の家族全員の人生を狂わせたい」という内容の短文を他者へ送らない。以上は「よいコーチ」の条件ではない。人間の常識だ。

日本大学ラグビー部のヘッドコーチが本年3月に辞任した。本当の理由は上記のごとき行為を部員に働き、学生の声により明らかとなったからである。8月に入って朝日新聞の報道で広く世に知られた。「論外」。そう片づけたくなるが、それでは根源がマスクされてしまう。ヘッドコーチは監督や各部門のコーチと長い時間を過ごす。周囲が察知できなかったとしたら奇妙だ。なぜ気配を嫌悪できなかったのか。ここに問題の核心はある。

この先は「よいコーチ」について述べたい。

よいコーチとは愛の人である。そこにいる人間を愛する。選手にかまうことではない。かまうという神経の裏にはかまわれたいという心の動きがひそむ。「感謝されなくてもちっととも構わない」。それでよいのだ。

元日本代表監督の日比野弘さんは「片思い」と表現した。コーチは「なんとか勝たせたい」と考え、ただただ自分の能力と時間を費やす。好かれたいからではない。報われたいからでもない。ただそうしたいのである。

先日。福岡県立筑紫高校ラグビー部出身の若者とたまたまのように会った。「チクシ」。高校ラグビー好きには格別な響きだ。公立校でありながら巨象のような東福岡高校に県予選で挑みかかる。まず勝てない。でも「惜しい」と発声しそうになるスコアを調べると、そこに至る濃密な時間がわかる。

筑紫には西村寛久という指導者がいた。1994年度から2013年度まで同校監督として一線で指導、厳格な鍛錬や部の運営はテレビのドキュメンタリー番組にも取り上げられた。現在は県立筑紫丘高校教頭の任にある。編集された映像の「西村イズム」は一見、思考停止を強いるスパルタの印象を与える。しかし、それだけであそこまで勝ち上がれるはずはない。

偶然会えた若者は「西村先生からの手紙」を卒業後何年も過ぎて、関西の大学を経て東京の企業で働くようになっても大切に保管している。見せてもらった。大試合の前の激励と決意が、ぎっしり、細かな字で綴られる。「愛」と「信」が底に流れる。こんな文を書く人は、どんなにおっかなくても、細く尖った棒状を教え子の頭部に突き立てない。身の干上がる猛練習にも尊厳の湖は枯れはしない。

昔、高校のコーチ時代の本稿筆者も手紙を渡した。練習休みの月曜、約30人の部員ひとりずつへの助言を喫茶店でしたためる。「駅前広場で鳩に餌をやる老人にその餌を手渡すのが生きがい」という風変わりな店主は、朝から午後の深い時間までコーヒーとトーストで粘る無給フルタイムのコーチに優しかった。

よいコーチはよい人であろうともがく。戦力の厚みに頼らず、いかなる環境でも勝とうとすると、そこにいる人間が「やる気に満ちあふれる集団」を形成しななくては話にならない。厳しいこと。ときにつらいこと。そこは避けて通れない。しかし「本当にいやなこと」があったら、もうそれだけで勝てない。だから指導者は、少なくとも、グラウンドの上、ミーティング部屋では「よい人であろう」と努める。私生活では聖人にも君子にもなれない。しかし、そうであっても、選手、部員と接するあいだだけは、よいコーチ=よい人でなければ「やる気に満ちあふれた集団」は生まれない。

よいコーチは自分よりよい人をチームに招く。よいコーチはおのれの名誉よりも選手の幸福を優先する。必然、自分よりもよい人、自分よりも優れたコーチを呼んで、愛の対象を教えてもらいたいと切に願う。「部員が俺よりもあいつの指導に魅力を感じている」ならピンチでなくハッピーな状態なのである。

よいコーチは孤独をおそれない。ひとりの時間は熟考と創造のためにある。ひとりぼっちで試合や練習をふりかえるうちに「あっ」と気づく。「ふっと」戦法が思い浮かぶ。「もしかしたら」と2軍の選手の悩みがわかったりする。

よいコーチは嫌われない自信を宿している。ここのところの解説は難しい。選手は自分を外したコーチを好きになれない。自然な感情だ。それでもコーチは決める。ワールドカップ参加の残りの枠からだれかを外す。努力を続けた高校3年生を落とし新人を抜擢する。でも10年後、試合に出さなかった者と再会しても心の底では嫌われていないとどこかで信じられる。だから乾いた決断もできる。選手を食事へ連れ出しては、その場における「帝王」や「善人」でありたいと願う気持ちは、きっと自信の脆弱のせいだ。前者は児戯めく「いじめ」に、後者は「好き嫌いに偏るセレクション」につながる危険がある。

高校ラグビーのコーチとしてたくさん考え、たくさん部員に話した。でも卒業生がいまも覚えているのは、そのうちのほんのわずかの言葉だ。コーチの存在は自分で思うほど選手にとっては大きくない。当然である。なのにあんなに燃えたのが愉快なのだ。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

過去のコラム