コラム「友情と尊敬」

第100回「さあ、前へ」 藤島 大

連載100回になる。更新頻度の衰えに、あちらこちらから、お叱りとありがたい激励を受けるのだが、あらかた自分の知っているラグビーの美徳を書いてしまったような気がして、思考がつい止まりがちになるのだ。

こういう時は、原点に立ち戻るに限る。

本年5月、天寿をまっとうするかのように天へと召された詩人、杉山平一の一篇に「前へ」がある。このコラムの筆者は、出久根達郎の『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社)でその存在を知った。以下、改行なしで引かせてもらう。

「反省し振り返っても/立止まるな/ラグビーさながら/球を/後へ/後へ/送りながら/前へ/前へ/突進せよ」

そうなのだ。ラグビーとは簡潔なものなのだ。前へ。球を後方へ送りながら前へ前へと突進するのである。

のちに日本協会会長も務める戦前の名センター、川越藤一郎さん(故人)は、早稲田大学の部員時代、ルールブックを熟読して、こう考えた。

「ラグビーとは構造的にボールを持った人間がひとり先頭に立つ。それに対してディフェンスでは多くの人間が横一線の平面で守ることが許される。だから攻撃よりも防御に優位性がある」

そこから日本ラグビーのひとつ特質となる「シャロー防御」を考案する。

競技の構造をシンプルにとらえ、その大きな枠組の中で深く考え抜く。時代を超えて、まったく普遍的な態度である。いま世界中のプロのコーチたちが最先端のラグビーを突き詰めようとすると、はるか昔の日本の大学生の発想とあまり変わらぬ結論は導かれる。

ご存知、明治大学の終身監督であった北島忠治さん(故人)の次の言葉も味わい深く、また鋭い。

「ボールを持った人間がリーダーなのだ」

普遍、まさに普遍である。晩年にはこうも語っている。

「グラウンドに出てボールを囲む以上は、皆一人一人が監督であり、キャプテンであり、プレイヤーであるんだから、いつも自分の判断でやれっていうことを言ってるんだ」(『八幡山春秋』)

ラグビーとは絶対にチームスポーツだからこそ、すぐれて個人競技なのである。ボールを持った人間はまさに先頭に位置するゆえ、必然、その瞬間のリーダーとなる。シンプルだ。

ラグビー界は1995年にプロ容認のオープン化された。以来、プロの指導者がどんどん誕生、役割りは細分化される。コーチの分だけ「理屈」が増えるのは自然な流れだ。本当は幹のところは簡潔なのだが、枝葉はどんどん増える。するとラグビーが複雑に映る。

前へ。手に持ったボールを後方に送りながら前へ。タックルをかいくぐり、はねのけて、防御の網に穴を見つけて、また前へ。なんと簡単なスポーツなのだろう。

若きラグビー選手よ。あなたが、もし中学1年生であっても、高校1年生であっても、ルールをよく理解し、実はシンプルなスポーツなのだとわかろう。そのうえで「こうすればトライができる。こうするとトライをされずにすむ」と考え抜こう。それを実行するための体をつくり、そのために最も大切な技術を身につけよう。あとは汚いこと、ずるいことをしなければ、それでもう立派なラグビーなのだ。

振り返り、反省しよう。だが立ち止まるな。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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