コラム「友情と尊敬」

第119回「11歳、これから。」 藤島 大

やせがまん。きれいごと。やはり大切なのだ。6月13日、ニュージーランド・オークランドの地域の試合で、ある選手にイエローカードが突き出された。危険なタックルが理由だ。すると、その選手はレフェリーに襲いかかり殴打を試みた。これだけでもニュースだろう。そして出来事は「大ニュース」となる。選手が11歳だからだ。それはU12の一戦だった。

少年の所属するパパトエトエ・クラブのチェアマンは「突発的な不祥事」(シドニー・モーニング・ヘラルド紙)と述べている。「少年は冷静さを失ったのだ」と。問題の核心はここにある。未熟な11歳をかばうための発言だから考慮はしなくてはならないが、それでも間違っている。なぜなら「突発的な不祥事」を起こさぬためにラグビーをするのだから。すぐに冷静でなくなる人間をよしとせぬ。そのために練習とゲームはある。

昔、日本のラグビー界にはこんな言い方があった。「レフェリーは神様だ」。いま、どうだろうか。形式、おおむねの実態において審判の権威は保たれている。しかし精神の領域、選手の心構えの範疇にあっては「レフェリーも人間だ。しばしば間違えるのだから疑ってかかれ。性格や傾向を考えてうまく対処せよ」に変わりつつある。レフェリーは神様であるはずはなく、もちろん人間だ。だからこそ、すなわち、人間であるからこそ、ラグビーのグラウンドでは「神様」であったほうがよいような気がする。きれいごとの出番である。子供でも神様なら殴りかからない。

当事者は、レフェリングを試合中と試合直後に批判してはならない。興奮しているからだ。少し時間をあけて、しかるべき立場の者が「「説明を求める」ならありうる。ジャーナリズムが時に批評するのも当然だろう。ファンはもとより自由だ。チケットを買う一級の試合なら「おいレフェリー、何を見てるんだ」と叫んでも構わない(ユーモアをまぶせば)。ただし選手、とりわけ少年少女は一切の批判をしてはならぬ。また少年少女のゲームでは観客のヤジも厳禁だ。極端なまでのレフェリー尊重がちょうどよい。

11歳の少年がイエローカードを鼻先に掲げられて、怒り、バイオレンスに走る。その人の性分で片づけたのではラグビーの敗北である。カッとなる。でもレフェリーは神様だとコーチはいつも言っている。振り上げたくなる手がそこで止まる。ここまでならコーチングで可能だ。今回の件、観戦者の匿名の証言では「(カードを出され)ゴールポストに向かって歩き去っていた少年は、途中で戻り、レフェリーに向けて指を突き立て、背後から倒した」(NZヘラルド紙)。瞬時の怒りより時間の経過がある。なおさら日常の指導が徹底していれば「踏みとどまる理性」が野性を上回れたはずだ。

ラグビーのコーチングにおいて「極端」は重要だ。極端に強調したことがようやく身体化される。練習で年間を通して「極端に前へ出続けた」チームだけが、いざ本番で「普通に前へ出続けられる」。極端に深いサポートを仕込まれて、なんとか公式戦で「浅くはならぬサポート」をこなせる。レフェリーへの敬意、激しい攻防にも理性をなくさぬ態度もまた日常のグラウンドで極端に強調されてこそ身につくのだ。

さて11歳の少年は、現地の報道では、本稿執筆時では後日に延期されたクラブの調査とオークランド協会のヒアリングにより、最も重い場合、「ラグビー競技からの永久追放」もありうるらしい。これは間違いだ。成人にも若者にも再起の機会は与えられるべきで、まして子供である。ここからがラグビーの出番なのだ。

フランスのクレルモン所属、カナダ代表のパワフルなFW、ジェイミー・カドモアは、少年鑑別所にも入れられた元不良少年だった。野球が好きで本塁で豪快にぶちかましては、よく叱られた。17歳、楕円球と出合う。「ラグビーに救われました。私の無軌道の出口となったからです。誰かにぶつかれば、誰かがぶつかってくる。それこそは、私が人生に求めてきたことだったんだ」(2007年ワールドカップの公式ページ)。きれいごとが行き場のないエネルギーを呑み込んだのである。この人、カードはよくもらう。でもレフェリーを襲いはしない。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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