コラム「友情と尊敬」

第65回「頭と度胸」 藤島 大

職場でこんな言い回しを耳にしたことはないだろうか。「彼(彼女)、頭いいよね」。いやな感じだ。なにが、いやって、他者の「頭の良し悪し」を評価するにあたって、発言の主は自分の「頭」をどうとらえているのか。もちろん「悪くない」と自負している。その無自覚の傲慢が美しくない。

しかし、ラグビーに限らずスポーツのコーチ(監督)は、よく、こんなふうに言う。

「あいつ、頭いいじゃない」

筆者も指導に没頭しているころはそうだったし、そのクセが抜けず、いまもよく同じように選手を評価する。周囲には感じが悪く聞こえているだろう。

でもスポーツ、この場合はラグビーの勝負に打ち込むと、どうしても選手の「頭のよさ」に惹かれてしまう。それなしには選手の身体的資質や経歴に劣る側は勝てないからである。コーチという種族は「自分にできなかったことを選手にさせる」ための生物でもあるから、その際、自身が頭がよいかは不問とするのだ。

ここで、しばらくボクシングの話を書かせてもらいたい。本稿執筆前夜、見事な試合を見た。

ライト級の小堀佑介が、ニカラグアの強打者、ホセ・アルファロを3回TKOで破って、WBAの世界王座を獲得した。倒され、それなのに前へ出て、大振りの強打の先手を奪う、いわば「接近プレー」で逆転した。

実は予感があった。数年前、たまたま近所の洋食店兼酒場で、この小堀佑介と卓を同じくする機会があった。口下手、不良がかった風貌、でも、こちらのコーチ経験のおかげで、すぐに「頭がいい」とわかった。会話にそこはかとないユーモアがあり、なにより芯が強そう。深いところの自信がある。実際のファイトを追うと、度胸もいい。チャンスを逃さず仕留め切る。めぐってきた世界戦、この人なら勝てる。そう踏んだ。

ラグビーもボクシングも一緒なのだ。以下、結論。

頭と度胸。

それさえあれば、多少の技術やパワーの差くらい埋められる。この場合の「頭のよさ」が学歴とは直接関係ない(無縁とも限らない)のは自明であり、また「度胸のよさ」は、いたずらな攻撃性と無関係であるのも当然だ。

新チャンピオン、小堀佑介の担当トレーナー氏に「頭と度胸のいい選手ですよね」と聞くと、こう答えてくれた。「そう、あんな顔してるけど頭悪くないんですよ。理解力がある。ハートも強い。だから、いつでもポテンシャルをそのまま発揮できる。そういう選手、案外、珍しいんだ」。

さてラグビー、さてジャパン、やはり、ワールドカップで世界の強豪に金星を狙うためには「頭と度胸」を軸に選手選考すべきだ。「頭のよさ」「度胸のよさ」の定義は難しいのだが、つまりは、一喜一憂せず、自分を客観視できて、おのれの力で解決できることのみに集中、大きな舞台にも小さな舞台にもまるで変わらぬ態度で臨み、いざとなれば被弾をおそれず前へ出られる。すべて、苦しい局面、僅差の神経戦を乗り越えるために不可欠な要素である。

以前、迷えるジャパンに思った。「そんなセレクションしてるくらいなら、強豪各大学のキャプテン経験者だけで15人選んだほうが、まだ強い相手と感動の勝負ができるのでは」。偏見の批判は甘受したい。責任感とリーダーシップ、そもそもリーダーに選ばれるだけの「頭と度胸」が最低限は担保されていると考えたのである。スポーツだから、体格や身体能力の優劣は無視できないけれど、どうせ自分たちより恵まれた者に挑みかかるのであれば、内面の強さで上回っておかなくては勝機もない。

最後に一言。教え子の試合を見る。うしろでミーティング用のビデオ撮影をしている。音声も収録される。誰かが判断ミスをする。「バカっ」。これはセーフ。「あいつ、アッタマ、悪いなー」。これはアウトである。その選手とは、一生、師弟にも友人にもなれない。全国のコーチ諸兄、ご注意あれ。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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