コラム「友情と尊敬」

第121回「ノッコン・オフサイド」 藤島 大

最大のミステイクは、その人ではなく、その人を庇護すべき組織がおかした。あわれ、クレイグ・ジュベール。世界で最も優れたレフェリーのひとりは、世界注視の場における罪人とされた。ワールドカップの準々決勝で、勇敢なるスコットランドが、オーストラリア代表ワラビーズをまさに倒す直前、すなわち「大会における大金星(ただしジャパンが南アフリカを破る快挙につぐ)」を「誤審」が盗んだ。ノックオンをオフサイドとして3点をかすめ取った。そう決めつけられたのである。34-35のあまりに悔しい逆転負け。スコットランドの選手と市民がそう感じるのはスポーツの自由だ。一般のファンには判定に不服を述べる権利がある。しかし、ラグビーの国際統括団体である「ワールド・ラグビー(WR)」は、どこまでもジュベールを守るべきだった。

WRは、試合の翌日、映像確認の結果、競技規則に照らして「判定は誤り。ノックオンのスクラムが妥当」とする見解を発表した。この一件をもって「TMO(テレビ・マッチ・オフィシャル)」導入で「レフェリーの声(判定)が最後の声」というラグビーの伝統が崩れて以来の傾向は顕著となった。もはや「レフェリーは絶対」ではないのだ。

当該の場面。終了まで約2分、スコットランド陣のラインアウト。ボールがこぼれる。これをスコットランドのフランカーがつかめずノックオン。前にはねたところを同僚のプロップが本能的に捕球した。いわゆる「ノックオン・オフサイド」である。ところが、その前にワラビーズのハーフの腕にボールは触れており、そうであれば、もともとのノックオンのみが問われる。トライの成否とファウルプレーの有無を確かめるためのTMOは用いられない。瞬時を肉眼で確かめるのは困難である。あわれ、ジュベール。

ちなみに、南半球でのレフェリー経験の長い知人によれば、「ノックオン・オフサイド」なる言葉は「きっと意味は通じるだろうけれど」少なくとも現場と周辺で耳にしたことはなかった。「ボールの前にいた」と一言を添えて「オフサイド」と伝えるそうだ。

あのスコットランドの悲劇の直後、思い浮かんだのは「ノックオン・オフサイドの廃止」である。意図的、悪質なら、もちろん「オフサイド」。今回のような、とっさの出来事(あのプロップは直前まで後方に顔と体を向けており、そこにいきなり物体が弾んだので手が出た)なら「ただのノックオン、もしくはアクシデンタル・オフサイドでスクラム。そこに戻すために貴君はボールを回収してくれたのですね」くらいの精神で笛を吹く。現在でもレフェリーの裁量は認められているはずなのだが、より明確に「影響のない本能的反応」についてはペナルティーとせぬ「判例」をたくさん残すべきだ。

影響がなければ、注意を喚起しながらも、なるだけ取り締まらない。何度、レフェリングの心構えとして聞いただろう。されど今回のワールドカップもそうはならない。選手もコーチも観客も、それどころかレフェリーまでが「ルールと戦っている」かのようだ。さすがに一級の審判たちは、むやみに教条に陥らぬように務めている。だが結局のところ、選手は、反則の適用の範囲に神経を削る。これは、もはやレフェリーの資質の範疇になく、ラグビー競技の規則と運用そのものの問題である。

せっかくの緊迫の名勝負の均衡が、ひとつの反則で傾く。準決勝のオールブラックスとスプリングボクスの接戦もそうだった。後半18分。ボクスはスクラムを押して反則を得て3点を決める。直後のリスタート。せっかく15対17まで迫った「日本に負けた大巨人」は、ひとつ、ふたつとサイドをついて、そこでロックがラックのボールにかぶさるペナルティーを与えてしまう。また5点差へ。相手のプレッシャーのさしてない場面でのささやかな愚行により大きな勝負が大きく動く。反則は反則だ。レフェリーは正しい。しかし、観客の興奮のありかと「小さな反則のもたらす大きな3点」には乖離がある。最終スコアはオールブラックスの20―18だった。

反則はしてはならない。よい反則はラグビーに存在しない。ただ30人の肉弾戦のさなかに起きる「本能のノックオン・オフサイド、ラックのめくりでのわずかな重心のズレ」は、重大な試合の敗因(あるいは勝因)に値するのか。違和感は消えない。ルールとその適用の検討に加え、レフェリーに「寛容であることの自由」という権威を取り戻さなくてはならない。

さてジャパン、前回の8月上旬の当コラムに触れた「強くなってきたなあ」と「セレクションの競争原理からチームワークの醸成へと段階は移る。友情。尊敬。信頼。愛情。帰属意識。大義。使命感。いよいよ心の出番である」の流れは本大会で確かめられた。ただし筆者は予想を外した。エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)退任発表前には「1勝」と考えた。発表後(こういうことが開幕前にあると選手が急激にまとまる)に聞かれたら「1勝1分け」と答えただろう。いずれにせよ南アフリカをやっつけるなんて想像の外だった。

ジョーンズHCとリーチマイケル主将の代表の功績は「練習は裏切らず」の実証にある。次のジャパンの指導体制も、長い射程の視野にもとづく選手の原則固定、長期拘束の厳格な鍛練による身体の強化、スキルと攻防連動の自動化については継続しなくてはならない。ここを自主性の看板のもとに緩めると勝てない。他方、単独チームの指導者は、たとえば、すっかり有名になった早朝練習の形だけ模倣すると失敗する。「自分のチームに合致した方法」の追究と追求が先だ。「強いスクラム。強い身体。反則せぬ防御。見事なキッカー」との白星の定理は、国内でヤマハ、地球規模の舞台でジャパンが実践した。多くのチームにあてはまるだろう。でも、もしかしたら、あなたの所属クラブでは優先すべき課題が別のところにあるかもしれない。コーチングの妙だ。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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