コラム「友情と尊敬」

第4回「小さなコンテスト」 藤島 大

 ラグビーに対する誤解のひとつに以下の言い回しがある。
 「格闘技」
 もちろん鍛え上げた肉体をぶつけあう格闘の側面は否めない。また、それも大きな魅力だ。しかし、こうも言える。
「ラグビーは格闘技ではない」

 さまざまな技巧と技法を用いて、当たるのでなく抜く。練り上げた理論に従い、理詰めでトライを奪う。つまり「ラグビーは球技」である。

 スポーツ記者として多様な競技に接してきた。そのうち個人的には、こう考えるようになった。
「ラグビーは意外にフィジカルなスポーツではない」

 では、どういうことか。
「ラグビーにおいては肉体の素質に恵まれた者の成功は約束されていない」 長く、この魅惑に満ちたスポーツと接しての実感である。

 あなたの周囲にもいませんか。見事な肉体の資質に恵まれながら、いまひとつゲームで力を発揮できない人物を。100㍍を11秒台で走れるのに、1試合に2回しかボールに触れない。体重100㌔で、しかも俊敏なのに、ラックやモールにうまく絡めない。こんな例は少なくないはずだ。

 反対に、ラグビーでは、さほど格別な肉体の資質を持っていないのに、見事なタックルや的確な判断でチームに欠かせない選手をよく目にする。
当然、限度はある。しかし、最低限の資質があれば、厳しい自己管理や集中力でカバーできる。

 1970年代のウェールズ代表で名をはせたジェラルド・デイヴィスに「ラグビーの魅力」を聞いたことがある。
 現在はジャーナリストとして活躍する史上屈指のWTBは即答した。

 「ラグビーにはスクラムやラインアウト、バックスの抜き合いなど、小さなコンテストが連続する。だから、そのつど考える能力が試される」

 昨今のルール変更の流れは中断を減らす方向だが、かつてのラグビーは、しょっちゅう試合が止まった。それは、一面では退屈を呼んだが。他方、いちどずつの駆け引きの妙に味わいがあった。

 現在でも、たとえばサッカーやバスケットボールに比べて、なおラグビーには中断が多い。ただし、野球やアメリカン・フットボールよりは動きが連続する。この「ほどよさ」こそラグビーのラグビーらしさである。多少、乱暴にくくれば、サッカーにおける判断力は本能(運動能力)と一体となっている。とっさの「直感」にも近い。しかし、ラグビーのそれは「考える力」をより要する。

 かなり足は遅くとも、集中心と闘争心を欠かさず、「よりよいアイデア」を考えられればチームに居場所はある。逆も真である。

 記録を競うスポーツ、あまりにも攻防が速く連続する競技での成功には、ある方面の肉体の優秀さは不可欠だ。しかしラグビーはそうではない。
 誰であれ「その人そのものの」力、肉体を超える人間の総合的な能力と可能性を十分に発揮できる。だから思う。

 人類にとってラグビーは絶対に必要だ。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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