第94回「ジャパン」
藤島 大
JKがチームをまとめ、闘争心に火をつけ、土台を仕込んだから「いまの方法では強豪には届かない」という現実は浮かんだ。ファンもジャーナリズムも「段階を踏めている。これでよい」とか「もっと素早い攻防を追求すべきだ」という議論をできるようになった。ここから先は、こんどこそ日本協会のレビュー能力が問われる。
これは4年前のワールドカップでの本コラムの一節である。
残念にも、また「いまの方法では強豪には届かない」。もっと述べれば強豪よりは手前に位置するトンガとカナダを上回ることもできなかった。「闘争心に火をつけ」というところでは、今回のオールブラックスとトンガ両戦では前回よりもむしろ低調だった。
「本当の日本のラグビー、本物の速さと低さには届いていない」
以上も4年前の本稿の結論だ。これも同じである。
まさに、ここから先は、こんどのこんどこそ日本協会のレビュー能力が問われる。レビュー、しっかり振り返り現実を見つめて精査することは日本のスポーツ界の不得手な分野である。
カナダ戦にも顕著だったが、やはり、低さの追求がなされていなかった。何本かの高いタックルが勝利を逃した。ディフェンスの速さ(早さ)も、たとえばフランスと比べても後手を踏んだ。防御ラインの上げ方は各国それぞれなので比較は難しいが、少なくとも、いつかスローガンに掲げた「世界一速い」はまったく達成されていない。
オールブラックス戦は、続く中4日のトンガ戦をにらんで「控え主体」で戦った。そこについては現実論もあって答えは簡単ではない。筆者の立場は異なるが、ジョン・カーワンHCの判断も理解できる。むしろそちらが共通認識に近い。
ただ地元紙の書くところの「ジャパンB」をもっと闘争集団として磨いておくことは指導者の務めだった。そこについてはカーワンHCの明らかな失敗だ。あの夜のジャパンには精気も確信もなかった。試合前のウォームアップを終えて控室へ引き揚げるオールブラックスが集団で走っていたのに、ジャパンは人と人の距離があいてしまっていた。まさにそんな試合だった。
オールブラックス戦では、一般的な防御は、掛け値なしの強国にはまるで通用しないという事実があらためて明らかとなった。歴史は繰り返された。
オールブラックスの開幕トンガ戦をゴールポスト裏やサイドラインの深いところの席から見て、バックスの選手がボールを受ける瞬間にクッと内へ角度を変え、それによって次の動きのための「間(ま)」と各種ステップの選択肢を得るのだと確かめられた。「あれを止めるには」と考えながらメモを取ると自然に「シャロー」と記していた。日本式シャロー防御、超の字の出足でボール保持者のやや外側から限りなく直線に近い曲線を描きつつ前へ飛び出し、タックルの瞬間には正対する。あれだ。あれしかない。当然、そうしたらキックやライン角度で攻略してくる。でも強い相手にいつもと違うことをさせれば、そこで半歩リードだ。
「昔はよかった」ではない。ラグビーは刻々と進歩している。過去の礼賛ではなくて、まさに現実の問題として超シャローは求められている。大西ジャパンでも宿沢ジャパンでも、幾つかの成功例に学ぶべきは「スペースを与えれば強いほうが勝つ」というような断定の力、その具体的な浸透のさせ方だ。ここはスタイルや戦法と異なり普遍的評価に値する。それはまたカーワンのジャパンのもどかしいところでもあった。どうしても強国の常識の範疇を想像力が超えようとしない。
トンガ戦では日本国内のファイナルを見た。次元は別だ。でもそうなのだ。どうしても勝ちたい側が「ブレイクダウン」にすべてをかける。どんどん周縁を削ぎ落として、ど真ん中だけで端的にファイトする。トンガはそうした。ジャパンはフランス戦の「半分成功」の余韻のまま「いつも通り」戦おうとして吹き飛ばされた。いまそこでなく次に意識は飛んだ。ここにも歴史は繰り返された。興味深いのはカナダもジャパン戦では同じ穴に陥りかけたことだ。好調ゆえに「負けられない」重圧を感じ、しかし「勝てるだろう」という気分もあってミスを重ねた。ただしカナダには根太い結束力、指導者への信頼があり、そこから持ち直した。
ジャパンは敵陣で型に沿って攻撃を始めると、かつてないような迫力があった。その時間が長ければよいチームであれた。強豪国標準のストラクチャーと準備に日本選手と国内ラグビーの本来の「はやさ(速さと早さ)」がミックスされる。そこが持ち味だった。ただ実際の勝負では、攻撃の時間と回数をみずからのミスや反則で手放してしまった。
大きな枠はジャパンに不向きだった。個人的にはそう考える。ただし、その方針の中では進歩もした。もとより選手はいつでも力を尽くそうとする。パシフィック・ネーションズカップでの優勝、そうでなくとも数年来のサモア、トンガ、フィジー戦勝利は、準備の過程に優位があるにせよ評価されなくてはならない。
菊谷崇主将は難しい任を明朗に務めた。ある在ニュージーランドのインド系女性は「キクタニさんのメディアでの態度はオープンな雰囲気でものすごく感じがよい」と話していた。 そして大野均(鬼神のカナダ戦)、小野澤宏時(極限の集中力の具現。トンガ戦国家吹奏の際の表情は喜怒哀楽のすべてを超越していた)の存在と態度は、国内のラグビーの可能性と潜在力を示している。こんな人間を輩出できるのだ。ティーンエイジャーで来日のマイケル・リーチ(世界へ提出された才能)には日本の高校と大学ラグビーの血が流れている。
スクラム未整備。ベテラン日本選手(たとえば箕内拓郎!)の「チーム結束での視えない力」の過小評価。高く遅い防御。生々しいほどの本物の人間関係はあったのか。つまり、そこにいる者の心は指導者の前で解放されていたのか。それらは感情を排して分析されるべきだ。
そのうえで「新しい日本ラグビー」を極端なほど大胆に創造する。大切なファンの胸躍るような後継体制と選手選考に踏み切る。それしか生き残りの道はない。日本式シャロー防御と独自のスクラム、角度で抜くライン攻撃と小さな人間のオフロードの開発、世界のどこにもない「攻防時の人間の配置」の研究…。終わりを始まりとできなければ無になってしまう。
■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。