コラム「友情と尊敬」

第49回「沼から出る」 藤島 大

スポーツの主要な部分は「勝負」であるから、勝者の声に人々が耳を傾けるのは自然なのかもしれない。世界の顔、ジョン・カーワンが「日本の独自のスタイル」と唱えたら、あっという間に流れは決まった。

これまで、心ある指導者が、日本代表の歴戦の勇士が、多くのジャーナリズムが、そしてファンが、「ジャパンのオリジナリティー」を求めても、そのつどの現場の反応は鮮明ではなかった。

筆者も、また、何度か、ジャパンの指導者に、やんわりと問い返された。

「個人の差を詰めて、ようやく日本の形がどうだとか、攻め方がどうだとか、という話が出てくるんでね。それまでは個人のトータルなスキルをどう高めるかが先決です。それがないと、ただワールドカップに出るだけで終わってしまう」(1998年夏、平尾誠二監督=当時)

「スピード勝負、器用さ、マスコミの方もよくおっしゃるけど、漠然として僕はわからない」(03年暮れの就任後、勝田隆強化委員長=当時)

平尾元監督の方針が、必ずしも間違っているわけではない。ただ歴史の事実として「一般的な力をつけて、それから独自性へ」という方針は時間切れに終わった。つまり間に合わなかった。あのジャパンは、前へ出てのコンタクトはたくましくなったが、到達の像が選手にはあいまいなままワールドカップ(W杯)本大会を迎えた。「トータルなスキル」というのは無限だ。結局は「戦法に応じたスキル」(故・大西鐵之祐元日本代表監督)を身につけて勝負に打って出るほかはない。

新しく就任したコーチにとって、指導開始直後、もっと述べれば、最初の発言はきわめて大切だ。

「私は日本のスタイルをつくる」「世界で一番速いディフェンス」

結論を先に述べるから説得力がある。選手の心に染みる。カーワン次期ヘッドコーチ(HC)は、その意味では滑らかにスタートを切れた。ジャン・ピエール・エリサルド前HCも、ところどころで「日本のラグビーをする」と語ってはいたのだが、スパッと断言しないので訴求力を欠いた。

断定的なイメージが共有されれば、選手の迷いは吹っ切れて、それがW杯アジア地区最終予選の韓国戦の快勝(54-0)をもたらした。かつてのオールブラックスの名ウイングにして前イタリア代表監督、愛称J・Kが「日本のスタイル構築」を宣言すると、異を唱える者はいない。皮肉まじりに表現するなら、それは「待ち望まれた外圧」だった。

J・K就任後のジャパンを眺めて考えさせられるのは「名選手は名コーチにあらず」というスポーツ界の格言である。まずは正しい。しかし、これには後段がある。

「同じ能力なら名選手をコーチに」

コーチを昔の名前で選ぶと、多くは失敗する。名選手とは、少ないから名選手なのであって、そもそものソースは限られている。当然、コーチに適した人格と能力の所有者は、きわめて少数だ。世の大半は名選手でないのだから、無名・平凡の選手の池から、よきコーチが飛び出す確率は高い。ただし同じ能力、コーチに適した人格の持ち主であるなら、それは名選手のほうが強い。説得力があり、相手への威圧感もあり、物事を推し進めるにあたっての「顔」が効く。万事に手を尽くしたあと、実際の試合における修羅場の対処への経験がいきる場合もありうるだろう。

J・Kの真価はここから問われる。いたずらな礼賛は早い。すでにして強化の工程は大幅に遅れており、誰にとっても楽ではない。ただ、ぬかるみに足をとられていた選手に「大物」の存在は心強い。

ちょっと故・宿沢広朗元日本代表監督の就任時(89年)の雰囲気と重なる。銀行マンとしての成功はとどろいており、当時の迷える選手たちは「ともかく優秀な人がきてくれる」と期待した。何人かが、そう話すのを聞いたことがある。オールブラックスの大物、文武両道の為替ディーラー、ともかく普通ではない人物が沼から引き上げてくれるのである。

来年4月に再始動のジャパンは、時間と戦う。J・Kの成功の焦点は「日本人の長所」の到達イメージを、どのレベルに置くかである。ニュージーランド人には理解できないくらいの素早さ、忍耐力を遠慮なく要求してもらいたい。

■ 筆者「藤島大」の略歴■
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。曼荼羅クラブでもプレー。ポジションはFB。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)など。ラグビーマガジン。週刊現代などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球に見る夢』放送中。

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